開催中の特別展、生誕200周年記念 森川杜園展。毎年、奈良町にぎわいの家で、大津昌昭先生の「芸三職 森川杜園」をテキストに開館当初から、杜園企画を続けている、私としては、是非是非、見に行ってください!!と声を大にして、いえ、字を大にして?!書きたいです。
このブログでも、何度もレポートしていますが、奈良町にぎわいの家(奈良市の文化観光施設・登録有形文化財の奈良町家)の二軒隣が、森川杜園の家で、ご縁を感じて、「奈良町といえば、森川杜園!」が合い言葉にならないかしら、と企画を続けてきました。市民参加の朗読会を主に、杜園の作品を生でみる展示も、地元の皆さんのお力添えでできました。その杜園の作品が、ずらーっと並ぶのですから、もう必見です。
何しろ、私は杜園の作品より先に、大津昌昭先生の小説の方に出会い、その魅力に心をつかまれ、実際に作品を見たら…ああ、これは楽しい、一刀彫のイメージが全く違ってみえる…と思った次第です。
昨年の春日大社の森川杜園展は、高円宮妃久子様出品の杜園の根付をうっとり見ていましたが、今年は、正倉院の宝物の模写や模造など、こちらに目をひかれました。見ながら、大津先生の書かれた物語が頭の中に再現されてくる感じです。模写や模造って、芸術家としてはどうよ、と思いがちですが、ちょっと全然違うんですよね。芸術以前に、杜園には「仕事」なんです。私はこの「仕事」というところがとても良いなあと思います。生業として製作を続けていた、そこに作品の強度が見えるようにも思います。自分を表現するために芸術はある、それはとても大切で、ここがなけれぱ創作は成り立たないのですが、一方、独りよがりになってしまうことも、無きにしもあらず。
なので、杜園の作品を見ていると、芸術至上主義?的なところからやや離れて、「手」や「木」や「彫る」という、具体的な事柄の持つ力を、改めて認識させてくれるように思います。目の前にあるものをしっかり見る、ということが、私は全くできていない、とつくづく思いました。これ、歌…短歌を詠む時も同じで…見るんですよね、本当はもっとちゃんと。
そんな私の繰り言よりも!とにかく、ご覧ください。杜園の「手」が生む仕事の数々…。とても楽しいです!ぜひ、奈良県立美術館へ!
このブログでも、何度もレポートしていますが、奈良町にぎわいの家(奈良市の文化観光施設・登録有形文化財の奈良町家)の二軒隣が、森川杜園の家で、ご縁を感じて、「奈良町といえば、森川杜園!」が合い言葉にならないかしら、と企画を続けてきました。市民参加の朗読会を主に、杜園の作品を生でみる展示も、地元の皆さんのお力添えでできました。その杜園の作品が、ずらーっと並ぶのですから、もう必見です。
何しろ、私は杜園の作品より先に、大津昌昭先生の小説の方に出会い、その魅力に心をつかまれ、実際に作品を見たら…ああ、これは楽しい、一刀彫のイメージが全く違ってみえる…と思った次第です。
昨年の春日大社の森川杜園展は、高円宮妃久子様出品の杜園の根付をうっとり見ていましたが、今年は、正倉院の宝物の模写や模造など、こちらに目をひかれました。見ながら、大津先生の書かれた物語が頭の中に再現されてくる感じです。模写や模造って、芸術家としてはどうよ、と思いがちですが、ちょっと全然違うんですよね。芸術以前に、杜園には「仕事」なんです。私はこの「仕事」というところがとても良いなあと思います。生業として製作を続けていた、そこに作品の強度が見えるようにも思います。自分を表現するために芸術はある、それはとても大切で、ここがなけれぱ創作は成り立たないのですが、一方、独りよがりになってしまうことも、無きにしもあらず。
なので、杜園の作品を見ていると、芸術至上主義?的なところからやや離れて、「手」や「木」や「彫る」という、具体的な事柄の持つ力を、改めて認識させてくれるように思います。目の前にあるものをしっかり見る、ということが、私は全くできていない、とつくづく思いました。これ、歌…短歌を詠む時も同じで…見るんですよね、本当はもっとちゃんと。
そんな私の繰り言よりも!とにかく、ご覧ください。杜園の「手」が生む仕事の数々…。とても楽しいです!ぜひ、奈良県立美術館へ!