たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

無常迅速なり 生死事大なり

2012年06月02日 | お寺参り

108歳も生きた亡母は一日の厳しい労働の一日を終わり、就寝の床につくと「やれやれ今日も一日無事過ごさせてもらった・・。ナマンダブ、ナマンダブ」と、仏道が身についていて、私のように頭で仏教を理解するのとは違いましたね。
また、葬儀の喪主挨拶で兄が言ったのは、「105歳の頃、取っていた”家の光”という農家向け雑誌に載っていた”生きることは食べること”という、文字を指差し、皆も読めと言った」そうです。

道元の言葉 「正法眼蔵随聞記懐奘(えじょう) 著
無常迅速なり、生死事大なり。暫(しばら)く存命の間、業(ごう)を修し、学を好まんには、ただ仏道を行じ、仏法を学すべきなり

無常は素早く、一時もとどまっていないものである。
こうしているときでも、与えられた大切な時間は失われていくのである。
短い人生で最も大事なのは,生死をきわめることだ。
わずかに命のある間、何かの業(わざ)を身につけ、何かを学ぼうとするならば、
ただ仏道を修行し、
仏法を学ぶべきである。

立松和平さんが何かに書かれていて、先生の解説です。ノートに残していました。
詳しくはサイト「道元のことば」を!

示に云(いわ)く、無常迅速(むじょうじんそく)なり、生死事大(しょうじじだい)なり。暫(しばら)く存命(ぞんめい)の間、業(ごう)を修し、学を好まんには、ただ仏道を行じ、仏法を学すべきなり。文筆詩歌(しいか)等、その詮(せん)なきなり。捨つべき道理、左右(さう)に及ばず。仏法を学し仏道を修するにも、尚ほ多般を兼ね学すべからず。況(いわ)んや教家(きょうけ)の顕密(けんみつ)の聖教(しょうぎょう)、一向に閣(さしお)くべきなり。仏祖の言語すら、多般を好み学すべからず。
(『正法眼蔵随聞記』二ノ十三)