昨日は哲学者梅原猛氏の論文を引用し、浄土仏教の自分なりに理解の手助けになった一文を紹介した。
読まれた読者から「なんで今の(時間の)居心地がよくないのか?教えてほしい」と、コメントがあった。これに応えるにどう居心地が悪いのか、私には分らないし、分っても答えるほどの知識も器量もなく答えられない。
梅原猛先生の著書 「歎異抄入門」 PHP文庫 が退職後少し余裕が出て宗教書を読んだ初期の本である。この良書は図書館の本で読み、あとから文庫本化されたので購入し手元にある。
先生は”人生に行き詰まり、自己にたえられなくなったときに私は、何度か「歎異抄」を繰り返し読んだ。そして読むたびに私は不思議と勇気づけられ、いつしか心の傷が癒された気になるのだった。・・・私は、今なお正確な意味における専修念仏の信者ではない。にもかかわらず、私は依然として「歎異抄」の熱烈な読者であり、この書物を、数ある日本の宗教的文献の中の最も優れたものの一つであると固く信じて疑わない。”と吐露されている。
人生に行詰まった、自己にたえられなくなることは、誰にもある。そいうときに寄り添い、抱きしめてくれるのが宗教なのであろう。
昨日の梅原先生の新聞コラムの前段は、歎異抄について述べ、親鸞の口伝を弟子が書いた歎異抄ではなく、あくまでも親鸞が心魂込めて書いた主著「教行信証」に依らねばならないと論説されていた。
居心地や居場所がないと自己にたえられなくなることは凡夫の常である。
2月の仏教講座で大谷大準教授 木越 康先生は、釈迦の思想は縁によって生起していると教える。無我、空(くう)、無常、あらゆるものは、すべてのものは存在ではなく現象である。
チューリップの花を板書され、このチューリップが咲くのには何が必要かと、会場の聴衆に問われた。皆が答えたのは、土、太陽、空気、水などなどで、花一つが咲くのには沢山の縁があって咲いたのだと話された。
49日忌を済ませた亡母は「えようが はちけて 豆の皮むく」と言って、私等子供を叱った。栄耀栄華で豆の皮をむく愚かさを叱ったわけだ。大学卒業生の半数以上が、職に就いてもすぐ退職する、就職口が見つからないという。この日本の現状に、年金暮らしの老人が暇をもてあまし豆の皮をむいてはなるまい。
昨日はゴルフコンペだった。天気もよく参加者はわずかに11名、倶楽部メンバー同士の寄せ集め、同じような年代の男女老年ゴルファーの会だ。会計の役なのでいろいろわずらわしいが楽しめた。スコアはグロス99、益々下手になる。同伴プレーヤーの1人は1年先輩の年齢ながら、自分の年齢と同等以下のエージシュートを達成、グロス77と高スコアをたたき出した。エージシュートはゴルファーのあこがれであり、このプレーに同伴できて、目の保養ができたのも縁である。