たそがれ時のつれづれに

人生のたそがれ時を迎えて折々の記を・・思うままに

往相回向、還相回向

2012年06月04日 | お寺参り

仏教の基本は、人間は生まれ変わり、死に変わりしてやがて仏になるという教えである。これを輪廻転生という。(歎異抄入門 梅原 猛著 PHP文庫)

反時代的蜜語 梅原 猛「二種回向と親鸞」 (朝日新聞の切抜きから引用)
“親鸞の主著「教行信証」証の巻で親鸞は二種回向(えこう)の説を説く。法蔵菩薩は難行苦行をし、48願を立て阿弥陀仏になりその広大な善行を人間に回向した。回向には二種がある。一種は、どのような悪人でも口称念仏をすれば必ず極楽浄土へ往生するという回向、往相(おうそう)回向である。もう一種は、極楽に行った人間がまた衆生救済のためにこの世に帰るという、還相(げんそう)回向である。

この二種回向がはっきり語られる経典は天親(てんじん)の「浄土論」と曇鸞(どんらん)の「浄土論註」である。天親によれば、極楽には五つの門があるという。極楽へ行き、(1)先ず阿弥陀仏に礼拝し、(2)次に阿弥陀仏の徳を讃嘆する。(3)次に自分も仏になることを願う(4)そして遍(あまね)く世の中を観察する。このように世の中を観察すると、阿弥陀仏の世界のすばらしさと同時にこの世で悩める人間の姿もみえてくる。とすれば(5)悩める衆生を救うためにまたこの世に帰らざるを得ない。仏教は利他の教えであるので、念仏者はいつまでの極楽浄土にとどまることができない。
この二種回向の説は法然の説でもあるが、法然の主著「選択本願念仏集」ではほとんど語られていない。しかし流罪になった親鸞は天親の「親」と曇鸞の「鸞」を取って自分の名としたが、そのとき既に「もっぱら善導に依る」という法然とはひと味違った浄土思想をもっていたのであろう。
近代真宗学はこの二種回向の説をほとんど説かない。それは当然ともいえる。なぜなら、科学を信じる現代人にとって、死後、浄土へ行くというのは幻想であり、その浄土からまた帰ってくるというのは幻想の上にまた幻想を重ねるようなものと思われるからである。
しかし念仏すれば浄土へ行き、またこの世へ帰り、また念仏すれば浄土へ行き,またまたこの世へ帰るという思想は、個人としてとしての人間を主体に考える場合、必ずしも幻想とはいえない。
遺伝子が生まれ変わり死に変わりして永遠に旅をしているという思想こそ、現代生物学が明らかにした科学的真理なのである。われわれの現在の生命の中には永遠といってよい何十億年という地球の歴史が宿っているのである。
悪人正機説に甘える近代真宗学には、永遠の自覚と利他業の実践の思想が欠如しているように思われる。二種回向の説を中心として近代を超える真宗学を樹立することが切に望まれる。“(新聞の日付はメモしていない。)

長い論文を引用したが、輪廻転生の思想が今に生きているとの分りやすい解説が参考になった。

5月の仏教講座で大谷大準教授木越康氏の講演を聴いた。梅原論文の「五つの善行」は
1、礼拝(らいはい:見業、行為のこと)2、讃嘆(さんだん:口業のこと)3、作願(さがん:意業、心の中に浄土に生まれたいと願い求めること)4、観察(かんざつ:智業、浄土の姿を心につくることができること)5、回向(えこう:方便、智業、変更のこと)という。

回向とは梵語のパリナーマ「回(めぐら)らし向ける」の義、自分のためだけでなく善根を他者にも振り向けること。菩提心を発する意、求道の心である。真宗は回向を大事にすると講話された。正信偈では
 往還回向由他力 おうげんえこうゆたりき ⇒往・還の回向は他力に由(よ)る
 正定之因唯信心 しょうじょうしいんゆいしんじん ⇒正定の因はただ信心なり
と親鸞は謳った。