東野圭吾の「怪笑小説」に、
「あるジーサンに線香を」がある。
若返り手術で、若くなったり、
実験段階なので、また老人に戻ったりする。
見た目年齢によって、ジーサンは一人称を変える。
テレながら。
ジーサンが「ぼく」というのを恥ずかしがる。
かわいいじゃないか。
それで思い至った。
Nは、自分のことを言うとき、
「僕」は恥ずかしい。
たぶん子供っぽいのだろう。
「俺」も恥ずかしい。
きっと格好つけすぎかと照れるのだろう。
「私」はおっさん臭く感じるのだろう。
友人の中には、「おら」という美青年もいるが、
それはマネ出来ない。
「自分は…」なんてほど、体育会系ではなく、
「わし」というくらい、武士でもジーサンでもない。
「おいどん」という地域には住んだことがない。
一人称は、自己表現の一歩であり、アイデンティティ。
しかし、身の程を周囲と分かち合えなければならない。
それらしくなければならない。
青春だなあ~。
「あるジーサンに線香を」がある。
若返り手術で、若くなったり、
実験段階なので、また老人に戻ったりする。
見た目年齢によって、ジーサンは一人称を変える。
テレながら。
ジーサンが「ぼく」というのを恥ずかしがる。
かわいいじゃないか。
それで思い至った。
Nは、自分のことを言うとき、
「僕」は恥ずかしい。
たぶん子供っぽいのだろう。
「俺」も恥ずかしい。
きっと格好つけすぎかと照れるのだろう。
「私」はおっさん臭く感じるのだろう。
友人の中には、「おら」という美青年もいるが、
それはマネ出来ない。
「自分は…」なんてほど、体育会系ではなく、
「わし」というくらい、武士でもジーサンでもない。
「おいどん」という地域には住んだことがない。
一人称は、自己表現の一歩であり、アイデンティティ。
しかし、身の程を周囲と分かち合えなければならない。
それらしくなければならない。
青春だなあ~。