夢中人

sura@cosmic_a

宝の地図

2008年10月01日 | Weblog
京都では、龍安寺に行ってきました。
龍安寺には、「枯山水」がありました。「枯山水」。。。私は本当に驚きました。
庭なんですけどね、なんと言っていいか、ものすごく影響力のある庭なんです。
この庭は、ある意味、お仏像と同じ力があると言っていいかもしれません。
。。。いや、もしかしたら、お仏像よりすごいかも。

この枯山水を目の前にすると、時間がゆっくりと進むんですよ。
きっと、どんなにあせっている時でも、この枯山水を前にすると、スッと時間がゆるやかに流れるエリアに
はいるんじゃないかと思うくらいです。
そして、その庭の前に立ち尽くし、いつしか座り込んでいるんです。
座り込んでしばらくすると、いろんなことが見えてくるんです。
この庭は「哲学」を与えてくれる。そう感じました。

龍安寺は、「もと徳大寺家の別荘を、宝徳2年(1450年)に細川勝元が譲り受け、
禅寺に改めたが、戦火で焼失し、明応8年(1499年)細川政元が再興した。
美しい鏡容池は藤原時代の由緒をとどめ、方丈前庭の枯山水庭園は俗に虎の子渡しと称されて有名である。
禅では、自己が「三昧」「無」になりきることによって自他一如の世界を自覚し、
その自覚を通して出てくるものは、山川草木ことごとく神、仏であるとするが、
この庭はそうした禅の極致を表現した永遠に新しい庭といわれ、時間、空間を越えて、
静かに心眼をひらき自問、自答するにふさわしい庭といえよう」
。。。龍安寺の入場券の裏に書いてあった文章です。
「永遠に新しい庭」「静かに心眼をひらき自問、自答するにふさわしい庭」
まさに、まさにその通りだと思います。
すごいっ!!本気ですごいと思います。

この龍安寺の枯山水の作者はわからないと聞きました。
ここに来る前に、ネットでここの画像を観ていたんですが、それとは全然印象が違いますよ。
目の前にしなければです。
それと、他の枯山水もちょっと拝見しましたが、そこのとこの龍安寺の枯山水は違いました。
外国の方も多くて、この枯山水の前でジ~っとされていました。
誰もがそうなるでしょうね。
。。。だからして、独り占めしたいんです。
もし、それが出来たら、贅沢ですでよね。超贅沢。そんな贅沢したいかも。
 
 
飛鳥から京都へ移動しましたが、飛鳥は外国の影響が色濃くありました。
そして、京都はすっかり日本でした。
日本は、外国から取り入れさせてもらった文化を上手に、そしてステキに自分達風に変えていったんですね。
今、グローバル化になりつつあるんですよね。
変化していくというのは、いろんな意見があって、不安もあると思うけど、
日本人には、日本風にかえる創造力(想像力)があるんですよ。
そして、いままで培ってきた「精神」を失わなければ、いい方向にいくんじゃないかと感じます。
変化していくには、いっぱいいっぱい話し合いをしなければなんですね。


今回、この飛鳥時代に気が付いたことで、「宝の地図」を手に入れたような気がします。
宝物はあっちこっちに眠っているようです。
眠りから目を覚ませなければ。
きっとうまくいく。
宝の地図はそうささやいているようです。
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遺言

2008年10月01日 | Weblog
602年(推古36年)に推古天皇は死去されたそうです。
その臨終に際し、後継者の田村皇子(舒明天皇)に対し、
「天下を治めることは大任だから、慎重に考え、軽々しいことは言ってはいけない」と遺言したそうです。

。。。これってですよ、私は思ったんですけど、推古天皇は今とか変わらない状況にあったんだろうなぁと。
言葉の解釈を、あーでもないこーでもないといわれたんじゃないかなぁってね。
これが遺言だったってことは、もしかしたら、ここの部分で結構苦労したのかも。
「あなたはその部分大丈夫かもしれないけど、でも、注意しといたほうがいいよ」ってね。
。。。と、思いつつ、
「でも、その部分注意しすぎちゃうと、あなたらしさがなくなっちゃうからそれも注意してね」
だったんじゃないかな。
そう思うんです。

天下を治めるって本当に大変なことでしょうね。想像を超えるものがあると感じます。
「慎重に考え、軽々しいことは言ってはいけない」。。。それはそうだと思います。
でも、政治は人が行うものでしょう。ロボットがやるわけじゃないんですよ。
ロボットは「失言」とやらをしないかもしれない。
もしかしたら、今の感じからすると、政治家さん達にロボット人間になれと言ってるのかな。
そんなの嫌だ。
それを強く求めているのがテレビだろうね。
一方では人の温かみ風を言っておいて、もう一方では完璧ロボットになれですか。
偽善だよね。
しかも、さんざん他の人のことを好き放題に言っておいて、ちょっと自分達が言われれば、
「報道の自由だ!!」とすぐに吠える。

私は、報道はボランティアであるべきじゃないかと思うんですよ。
そこに、売り上げとか視聴率などの数字が出てくるからゆがんでしまうんですよ。
きっと、推古天皇はどこかで今のテレビを観ているでしょうね。
そして「テレビ、いつか必ずぶっ壊しますから。覚えておきなさいよ」と思っているはず。
フフフ。。。マジで思ってますよ。。。
         フフフフ。。。。。
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ふたたびの奈良

2008年10月01日 | Weblog
JR東海 いま、ふたたびの奈良へ。 2006年 冬 法隆寺編



「一瞬にして、飛鳥の時代に引き戻されるようです」


「斑鳩 法隆寺」



「以和為貴」



「ここから生まれた日本人の心は、今の世の人にこそ大切なことなのかもしれません」



「今、ふたたびの奈良へ」

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