連休が明けた。
非日常が幕を下ろし、日常が帰ってきた。
少し長めの休みを経験すると、その休みが明けるときは静かに朝陽が昇っていくのを眺めているような気分になる。
今回はセミの鳴き声が無常観を演出してくれていて、その寂しさに向き合う気力さえ使い切っていたことに気が付いた。
埋めようのない精神的空間は両刃の剣か。
何かで常に埋め尽くされていることを充実と呼ぶことに慣れている身には
真空波となって傷つけられるし、それでいて何かから逃げおおせたような落ち着きもある。
役に立つとか立たないとか、いくら儲かったか損をしたのかとか、新型ウィルスに感染しているとかいないとか。
その時々のご都合主義に倣って、私も含めて多くの人皆適当に生きている。
そうすることで、さまざまな矛盾との距離を調節しているのかもしれない。
何気ない、特別なことなんて何も起こらない、淡々と過ごす日々。
十代の時は、忌み嫌うべき判で押したような毎日にしか見えていなかった。
何の疑いも根拠もなく、自分の視点を揺ぎ無いものと絶対視していた。
そして出会ういろんな方々に迷惑をかけ、傷つけ、疎まれ、それでも泣きながらうつむいて歩き続けるしかなかった日々は二十代まで続いた。
それらもみんな私の血となり汗となり、今につながっているのかなと思うと、
やりきれないような、もったいないような、情けないような
言葉にならない感情の波がいくつもできて、
代わる代わる被せて来ては引いていく。