一雨ごとに、気温が上がったり下がったり。
寒さの極みの2月を前に、小春日和に微笑みかけられたなら、温暖化のほくそ笑みかもしれないことは、どうでもよくなる。
凍えながら見上げる染まりゆく空に、嫌われ者の冬だって懸命に生きようとしている、とも思う。
新コロ騒動も一年が過ぎ、先進国と言われる国とは桁違いに被害が少ないことに変わりはないようだ。
陽性率を考えると無症状感染者は報道されているより桁違いに多いと思われ、発症率は桁違いに少ないと考えている。
建前上は非常事態なんだけれど、非常事態の割にはコロナ死者が少ないとどこかで感じている人は多いんじゃないだろうか。
病院のひっ迫も一部のみで、のんびりとあるいはガランとした病院の方が数的には多い気すら、私はしている。
選挙の人は、一生懸命世間受けを考えすぎるあまり、行動と言動が一致していない。
ない物を売る人は、一生懸命に売れるものに食いつきすぎて、売れるものが事実としている。
考える余力を奪われた人は、どうしたらいいのか教えてと、主権をたたき売りし始めている。
いつまで新型と呼ぶのかはわからないけれど、この武漢ウィルスとのお付き合いは続く。
その陰で、ほったらかしにされたまま苦しむ人も増えるんだろうな、と考えると寒空の寒風に似たやりきれなさをも感じる。
冬空の元、一喜一憂する大人達を、夜明け前である子供達にはどのように写っているのだろう。
心配はいらない。
きっとまたあの時のように、
「私達も被害者であり、加担したのではない。ともに新しい世の中へ向かって歩き出しましょう。」
と、乾ききらないその口で、遠慮なく飛沫を飛ばす日はやってくる。
もう、煽り事実のニュース痕を消し始めているやもしれない。