東北地方で地震があった。
津波が来るかもしれないという、朝のテレビニュースで知った。
寝ぼけ眼には、赤や黄色に点滅する画面は爆撃?!
と映った。
すぐに地震とわかったが、
ただちの非難と近隣への声掛けと命の大切さを
テレビは訴え続けていた。
10分程で見ていられなくなった。
見続けるにせよ、見守るにせよ。
離れた定点カメラ映像。
スタジオからは公発表の繰り返し。
振りを待つだけの現場アナウンサーに新たな情報は期待できなかった。
津波の到達予報時刻と到達した津波の高さを知らされてもピンとこない。
ピンときたとしたなら、これはこれで見てはいられなかっただろう。
テレビを消すまでに、何故見続けるのかを3度振り返った。
主な理由は変わらなかった。
いずれ始まるであろう、いつもの番組を待っていた。
ひょっとしたらテレビで何かが起こるのではないかと待っていた。
心配しながら見る事で自分の中に小さく芽生えた高みの見物感を減らしていた。
私は穏やかな秋の日々を過ごしたことを忘れがちだ。
天気予報も注目を集めそうなデータを紹介する。
それに軽く乗っかって、異常気象と呼んで望まない筈の記憶を強く残してしまっている。
地震と供に生活する国で生きる災害への備えは、
情報伝達や減災や避難訓練だけではないんじゃないかなぁ。
そんな気はしている。
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