ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

自尊心を持たずして、何が人生か !

2008-03-07 03:06:03 | 観想
○自尊心を持たずして、何が人生か !

自分の人生が、どうしようもなく逸脱してしまい始めると、自分の力で抗ってみても建て直すことなど不能なのだ、と気づいたのは、つい数年前のことだ。だからといって、僕は決して運命論者などではない。いやむしろ運命などというものが存在するのであれば、それに抗ってこその人生か、と思っている。ただ、自分の知力、体力、行動力などを総動員しても、勝ち目のない闘いもあるのが現実である。しかし、勝ち目があろうが、なかろうが、人間、自分の全存在を懸けなくてはならない場面が必ず生涯に一度や二度に止まらず在る、と思う。そういうときの覚悟のつけ方で人生の価値が決まるのだ、と確信するようになった。思えば遅すぎる気づきである。人生の折り返し点をとっくに過ぎ去ってからの覚悟に、どれほどの意味があるのかは分からないが、それでもこの歳になるまで現実に気づきが遅れてしまったのである。致し方ない。後は後悔のない、たぶんそれほど長くはない人生を、羽根を思い切り広げて生きるまでである。

失敗のない人生などはない。僕の場合は、失敗をくぐり抜けて来た人生だったとも思う。成功体験の方が少ないとも言える。成功体験などすぐに数えられるほどだから。とは言え、失敗だらけの人生を生き抜くにも、それなりの覚悟と自尊心が必要なのだ。とりわけ自尊心を喪失した生きざまは、醜悪である。それがたとえ世間的な成功を意味するものであれ、自尊心を反故にしてまで、世間的な成功体験などしたくもない。その意味においては、ヘソなどいくら曲がりくねっていても構いはしない。ヘラヘラした生きかたなど、僕の裡では生きているという定義に入らない。人間、それがたとえちっぽけなものであれ、自尊心を喪失した、その瞬間にその人は生きる意味を見失っている、と言っても過言ではないだろう。会社にお勤めのお父さん方が、上司の単なる思いつきや、訳の分からない命令にも何とか耐えているのも、自尊心があるからこそ出来ることなのである。よく考え違いをする人々は、上司の無情な命令にも耐えて生活を支えている人を、ことさらに貶すような輩である。しかし、これは大いなる間違いなのだ。自尊心がしっかりと腹の底に据わっているからこそ、パワハラごときには負けないのである。自尊心の希薄な人ほど、打たれ弱いから、すぐに尻餅をつく。僕の考えでは、現在の精神疾患の殆どは、自尊心の欠如故に起こるのではないか? と思っている。人間関係でうまくいかない、と言う人たちは、まずは、自分の心に問いかけてみるとよい。何らかの価値観によって、しっかりと自己が確立されているかどうか、を。自己が確立されるためには、自分に対するプライドを確立しなければならない。自尊心が確立されるためには、いろいろな価値観に自分の身を晒すことが必須の条件だ。そういう異なった価値意識のトンネルをぐぐり抜けて、やっと自分なりの価値意識が確立されるのである。これが自尊心の本来の姿である。

とは言え、ある人を取り巻く環境はそれぞれに複雑なので、生を生き抜く過程で数々の敗北はあるだろう。それが人生というものだ、と言ってしまえば実も蓋もないが、恐らくは人が生き抜くプロセスでは、敗北の体験の方が多いに違いない。それでも生き抜く。自死も選択の一つであることは認めるが、やはり自死を選ぶ人は、自分の人生にどこかで見切りをつけた人たちである。それを卑怯だとは思わない。が、不幸な人たちだ、とは思う。人の人生など、どこまでいっても不公平この上ない。平等などという概念そのものが絵に描いた餅だ。社会主義や共産主義が成り立たなかったのも、絵に描いた餅を現実に引き寄せようとした民衆の切ない営みと、一度握った権力を離したがらない、かつての民衆の指導者の強欲ゆえである。人は平等という観念のもとでは生きられない。資本主義国は、その意味で分かりやすい。不平等というラベルを貼って、平然としていられる社会だからである。社会主義や共産主義国に於ける絵に描いたような高級官僚優遇の社会は、絵にもならない空想に過ぎない。だからこそ、その末路は虚しい壮大な夢の残骸に終わること必定なのである。

夢のない世界で、あくまで夢を見ながら生き抜くこと。これが生に於ける覚悟、換言すれば、自尊心の確立である。どのような悪条件にあっても、プライドを棄てた瞬間に人は人でなくなる。あくまで自尊心を抱いた人として、自分の生を生き抜きたい、と思う。あるいは、自尊心のために死にたいとも思う。それがいまの僕の覚悟である。

○推薦図書「修羅を生きる」 梁 石日(ヤン・ソギル)著。幻冬舎アウトロー文庫。破天荒な青春時代をマルクス主義に傾注し、詩に耽溺し、事業に失敗し、大きな借金を抱え、無一文になり、それでも己れの生を生き抜く力強さに打たれることでしょう。作者の「血と骨」の原点とも言える作品です。

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長野安晃