ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

愛という解放の力学について

2008-03-31 19:28:17 | Weblog
○愛という解放の力学について

ずっと以前、愛という概念の定義に、言葉の表現力を持たない人々も、表現を言葉の力によって駆使できる人々も、躍起になって没入していた時期があったように記憶する。たとえば、恋と愛の違いについての、つまらない議論。愛とは恋の昇華されたより高度な次元における概念である、とか、もっと卑近な例で言えば、女性が男性に対して「あなたは、私に恋しているの? それとも愛してくれているの?」といったたわいもない言葉のやりとりが、頭の片隅にこびりついている。

しかし、よく考えてみれば、人が異性か同性かは知らぬが、好きになった対象者に抱く感情は、恋でも愛でも、好きでもよいのであって、このご時世ならば、愛という言葉に抵抗を感じないのであれば、愛という言葉で、様々な次元の、相手に対する好感情を包括してもよい、と僕は思う。問題であるのは、愛の定義だけである。ここを曖昧にしていると、思わぬ落とし穴が待ち受けていることになる。世の中に散見できる、愛の破綻の末の殺人や、暴力や、ストーカー行為などは、愛の定義から逸脱した性的感情の捩れ現象に過ぎない。だから、このような結果を生み出すところに愛は存在し得ない。もともと愛などなかった、と断言してもよい。愛の定義に入るが、補足しておくと、愛とは男女、あるいは同性に対する愛のあり方ばかりでなく、親子、親類縁者における愛のあり方にも当てはまるものだ、と推察する。

愛は、どこまでも愛する対象者(異性であれ、同性であれ)を解放する思想である。愛する人の心を解放できない愛など、愛の名に値しない。多くの人々はここのところを見逃している可能性があるように思われる。愛とは、それが意識的であれ、無意識的であれ、愛する人を、愛という言葉の錯誤によって、結果的に縛り、拘束し、その人の世界観を狭隘なものに封じ込めてしまう。同時に、そのような愛を強制する側の人も、自分の世界観をも、知らず知らずのうちに小さな器の中に閉じ込めていることになるのである。こういう状況になると、お互いが、相手の自由な思想や行動を認めるような発想に辿りつくことなど出来はしないし、観客のいない人情沙汰が横行する安っぽいドラマの、二人だけの饗宴の場と化する。行き着く果ては、醜悪な憎悪渦巻く泥沼の世界である。救いのない自滅型の、愛という概念が憎悪に刷り変わった無残な結末に立ち至る。

話をもとにもどす。愛は、再度言うが、愛の対象者の心や言動を解放する思想である。この思想の力によって、愛の対象者の美にはますます磨きがかかり、愛する側にもその輝くがごとき光は反射されてくるものであり、愛の深化と伴に、美の熟成がはじまると言って過言ではないだろう。愛と美とは分かちがたい存在だが、愛と醜とは、互いに反発する概念であるが故に、愛という思想の中に醜という概念が生じた瞬間から、愛の壊れが生まれはじめているのではないか、と思われる。

愛が解放の思想に根ざしているとすれば、そこには愛ゆえの精神の強靱さが要求される。少し背伸びして、その強靱さを発揮することである。そうであれば、己れの精神の強靱さに磨きがかかる。精神の強靱さと愛の深化とは同時進行的になし遂げられるのである。したがって、愛とは愛する対象者に対する飽くなきいとおしさを増幅させていき、同時に優しさにも筋金が入るが、単なる甘えや自己逃避のための愛に似た感情は、お互いを破壊し、愛そのものを破綻させる。愛することの内実とは、己れに対する厳しさを見失ってはならない、ということが大前提である。この大前提を見失った愛もどきの行為は、相手を傷つけ、同時に自分をも傷つける。そして自滅する。何もよいことなど起こり得ない。厳しいが、これが愛というものを心に抱いた者たちに課せられた生の課題である。甘えなど許されない。そういう危険性に常に鋭敏になっていること。これが愛の前提である。自戒の言葉として、胸に深く落としたい、と願う。今日の観想である。

○推薦図書「イニシエーション・ラブ」 乾 くるみ著。文春文庫。甘美でときとしてほろ苦い青春小説ですが、同時にミステリー小説でもあります。なかなかに才能ある作家です。これからの気鋭ともなるべき人だ、と思います。ぜひ、どうぞ。

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