ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

人生というラビリンスを彷徨おうではないか !

2008-03-08 23:59:46 | 観想
○人生というラビリンスを彷徨おうではないか !

人の善意を信じたいと思う。しかし、それと同量の、人の悪意の存在もこの歳になれば十分に承知しているつもりである。具体例を挙げれば書ききれない程だろう。ただ、僕は人は善意を建前にして生きるべきだが、自分でもどうにも抵抗し難い悪意が、善意の底にへばりついていることも、人が生きるという存在理由としては認める人間である。たぶん善意という仮面を一皮めくれば、そこには目を覆いたくなるほどの、反対概念としての悪意が隠れ棲んでいる。ある意味において、人が日常生活をなんとかやり過ごしていられるのは、時折頭を擡げてくる、内面の悪意を押さえ込むようにして生きているからだ、と思う。もっと言えば、人は善意と悪意が同居しているがゆえに生き得る存在とも言える。

何故人は鳥肌が立つほどの恐怖体験を好んで受け入れるのだろうか? 映画にせよ、テレビドラマにせよ、テレビゲームにせよ、人の恐怖や悪意に満ちた世界を創造世界で創り出しては、作者たちの脳髄の中の恐るべきドラマを共有体験しているのである。同時に、人は日常性からは、生涯出会えぬかも知れぬほどの善意のドラマを、人間愛のドラマを、そして男女の美しい内面の愛のドラマを生み出しもする。作者たちの美的な世界に身を浸しては、純粋な涙さえ流す。両極に、背反するベクトルを、生というドラマの中で、同時に感受出来るのが人という存在ではなかろうか? 恐らくは、人は悪意という、己れに巣くう埃だらけの巣窟に足を踏み込みつつも、ハッとした瞬時に善意という反対側に振れる振り子のような心のエネルギーの存在に気づきもするのである。いずれかの極に偏った人間は、善人とも呼ばれ、悪人とも呼ばれる。そこに経済の論理が混入してくると、さらに問題は複雑化する。善と悪の区別が、経済の論理によって、ぼやけてくるからだ。その中に時代性というファクターが混在すると、善悪という概念そのものの極が、簡単に入れ代わりもする。文化や文明という要素は、さらに善と悪の規定を困難にしてしまう。文化や文明の違いによって、善が悪となり、悪が善ともなり得る。殆どラビリンス(迷宮)の世界の様相を呈することになる。が、これが生きるという実体であるならば、敢えてラビリンスの世界像の中に確固とした価値観を持ち込む必要などないではないか?

人が絶対者を想定したがる心性は、まさに上記のごとき混迷した世界観の中に、確実な足場を創らねば、いつもガクガクと揺れる足許を垣間見て、どうしようもない不安感に苛まれるからだろう、と思う。神とは人間の脳髄が生み出した最大の発明物ではなかろうか? 神という存在をあくまで高みに置いて、生きる指針にでもできればよいのだが、人の安逸さ、これも底にはどろどろとした悪意が潜んでいるが、この安逸さが、「告白」という名の免罪符を創り出した、と思われる。人は告白することによって、自分の裡なる善意とは言いがたい行為に正当性を与えられる。そして告白することによって安堵する。アメリカマフィアの多くが、カトリック信者であることは、マフィアという暗黒の世界で蠢く輩の存在と決して矛盾しない。それどころか、マフィアが己れの組織のために、残忍な殺人を犯して後、カトリック教会に駆け込み、懺悔室の壁の向こうの神父に己れの罪を告白して、颯爽として元の暗黒の世界に立ち戻っていくのは、何も特殊な、変質的な行為ではない。論理の飛躍を敢えて覚悟の上で物を言えば、絶対者を想定するからこそ、人はどのような残忍な行為にも、気が障れることなく、ある程度の浄化作用によって、生き延びることも不可能ではない。あるいは反対に、絶対者を信ずればこそ、人は死をも恐れずに死界へと足を踏み入れる。その意味において絶対者としての神は、僕のような無神論者にとってはキワモノである。無神論者とは、人生というラビリンスの中を迷走する不安者の生きかたを選択した者の、覚悟ある生き方を生き抜く者のことである。

人生に不安はつきものである。それこそが人生とも言える。時折、生きることに嫌気がさして、この世界から消えてなくなりたい、というがごとき悪夢のような誘いに襲われもする。生とは虚しさの繰り返しであるとも言える。時折の幸福感によって、人々は何とかこの酷薄な日常を生き抜かねばならない。絶対者を想定しようとすまいと、そんなことはどうでもよいが、同じ不安の中を生きるのならば、絶対者などという存在に頼らずに生き抜き、死にたいものだ、と僕は思う。ラビリンスという混沌の中を彷徨いつつ生き抜きたい、と心から思う。

○推薦図書「九つの、物語」 橋本 紡著。集英社刊。喪失してしまった自分の大切な人を取り戻せるのか? かつては見えていた世界が再び見えるようになるのだろうか? あるいは失ってしまったかつての自分が発見できるのだろうか? という問いに満ち溢れた物語集です。どうぞ。

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