ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

人の優しさって何だ?

2008-03-21 22:58:33 | 観想
○人の優しさって何だ?

人の優しさを定義するのはとても難しい。何故なら一言で優しさといってもその概念自体が多面的であるからだ。多面体だからと言って、何面体なのかは僕自身にもよくは分からない。ただ、はっきりとしていることは、人が他者との関係性において、苦境に陥るのは当人が他者の多面体としての優しさの、ごく限られた数面を見ているに過ぎないということだけだ。優しさという概念を意図的に一面に絞り込める人は、詐欺師になれる。太陽光が凸レンズを通して、一点にそのエネルギーを集中させることが出来るように、詐欺師は、己れの優しさを凝縮させて、騙す相手にそのエネルギーを照射させる。

何故こんな騙しに引っ掛かるのか? 何故こんなつまらぬ男に入れ揚げるのか? 何故、こんな見え見えのウソ丸出しの事柄に金を注ぎ込むのか? と言った出来事がこの世界には、山のように存在する。別に詐欺師は玄人でなくても、素人の中にも、それとは意識せずに存在する。そういう男女の巡り合いは、その結末が不幸な結果に終わることは目に見えているだけ、切なく、哀しいものである。両者ともに多面体としての人間存在のごく限られた側面、それも愛という概念が絡むとますます互いに他者の多面性が見えなくなり、極度に狭まった面を見つめ合うことになり、その行為が進行すれば、互いの愛の感覚が結晶化されることなく、限られた側面どうしが擦れ合って、互いにひび割れるのである。愛の破綻とは、角度を変えて見ればこのように定義できるのではないか? スタンダールがかつて夢想した『恋愛論』における愛の結晶作用とは、あくまで愛する人間どうしの心と体との多面的な触れ合いの末に、愛が結実していく様を書き切った記録である。

恋愛や結婚が不幸な結末を迎えてしまうのは、愛の対象者に対する多面的な優しさの欠如ゆえに起こる出来事である。ここで言う、多面的とは、受容力の大きさ、と言い換えても差し支えない。受容力の欠如した愛は、愛する対象者に与えられることばかりを願う。自分が与えているつもりの行為すら、与えられることを底で願った上での行為に過ぎないのである。与えられることだけを求める愛が縺れると、当然のようにそこに摩擦が生じる。時として、その摩擦は、愛していたはずの対象者に恐怖心を与えたり、苦悩を強いたり、憎悪を引き起こしたりするだけである。そこからはどのような意味合いにおいても、結実するような感情など生まれはしない。そこに在るのは精神と肉体の破壊行為でしかない。愛ゆえの、あるいはもっと正確に言うと、愛という錯誤ゆえの破壊行為とは、具体的には、殺意であったり、ストーカー行為であったりする。換言すれば、つまりはかつての愛の対象者にとって、何らかのダメージを与え得るような行為を犯すことになる。始末に悪いのは、愛という錯誤に陥った人間の心性が、自分が愛した対象者にダメージを与えつつも、それを正当化しようとすることである。こういう事態に陥った人間の行うことと言えば、もう醜悪な感情から生まれ出る負の行為でしかないのである。

もし、愛する対象者に対する優しい感情がありながらも、愛を喪失してしまう不幸があるとしても、その不幸を、呑み込めずして、何が愛なのか? 愛とは許す行為でもあるのだ。どのように理不尽な経緯で愛が壊れたにしても、その理不尽さを凌駕するほどの愛による許しの感情がなくて、何が愛なのか? 愛が壊れたとき、人は切なさを深く感じるが、愛するがゆえに、切なさを呑み込むのである。そして、かつて愛した人を許すのである。さらに言うと、かつての愛の対象者の幸福を願うのである。
今日の観想である。間違ってはいない、と思う。

○推薦図書「恋愛論」 スタンダール著。新潮文庫。スタンダールはやはり「赤と黒」あるいは「パルムの僧院」が代表作ですが、彼の恋愛論もなかなかに味わい深い考察が込められています。いまさら恋愛論もなあ? とお思いの方こそ、どうぞ。愛の捉えなおしとして。

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