私立学校には、宗教法人が創立しているものが多く、どのような宗教法人であれ、それぞれの宗派の視点からの宗教教育というものが、カリキュラム化され、一つの教科として生徒の信教の自由という概念を超えたところで実践されている。公立学校では、いまはどのように呼ばれているのかは知らないが、「道徳」という科目の代わりに、私立学校では「宗教」という科目がカリキュラムの中に組み込まれているのが普通である。「道徳」であれ「宗教」であれ、各々に問題がある、と僕は思っている。たとえば「道徳」とはいったいどのような視点や思想で、その科目が紡ぎだされているのか? という問題である。少し立ち止まって考えてみれば一目瞭然なのだが、「道徳」とは、その時々の権力にとって都合のよい「道徳」であることは絶対に免れない。もっと言えば、そのときどきの権力者たちに奉仕し得る人間の思想の核を創ることの可能な科目が「道徳」であり、世界という観点で見れば多少の事情の違いはあるにせよ、たとえば日本という国には思想統制の、装置としての、教科書検定制度という歴然とした国家権力側の大衆教育としての、「道徳」が存在するのである。
宗教法人の支配する私立学校における宗教教育は、その宗派が創った宗教パンフレットに限りなく近い「宗教」という教科書があり、カリキュラム化され、正当化されて教え、諭される。日本国憲法における信教の自由という考え方は、ここに至っては完全に中抜け状態なのである。信教の自由どころか、宗教とは元来そのときどきの権力と容易に結びつくが故に、政治と一体のものと考えて余りあるし、その意味においては宗教とは極めて政治に近しい存在なのである建前のとしての政教分離が唱えられているところでは「道徳」教育という名の刷り込みが行われ、<私学の独自性>という聞こえのよい、在野精神を気取った発想のもとに執り行われているのが「宗教」教育なのである。勿論厳密に言えば、どのような科目においても、冷徹に市民の視点からのスクリーニング(検定)をすれば、学問的土台の端々に、ときの権力にとって都合のよい思想が散りばめられていることも分かる。スクリーニング・システム(教科書検定制度)という装置が如何に危険な存在なのかが、その思想性の危うさなりとも、スクリーニングに参加した人々には伝わるはずである。
人間の思想というものが、言葉によって形成され、形成された思想がさらに深化されて、人の思想の構造を決定づけるとするならば、権力側の言葉によって埋めつくされた道徳や宗教という名の、洗脳のための装置としての科目がカリキュラム化され、学校という場で教えられ、評価される、というのは危険極まりない試み、悪意ある権力者たちの思惑が、制度化されているがゆえに、とても危険に満ちた事柄なのである。
僕の考えでは、勿論教科書検定制度そのもののあり方を正していくことがまずは早急になされねばならない問題である。教科書検定員の中に必ず投票によって選ばれる市民の、かなり大きなパーセンテージの参加者が導入される必要があるのではないか? 世界中にはこのようなシステムがすでに出来上がっている国もたくさんあるのだ。日本政府のお好きなアメリカにも各州ごとに教育委員会があり、教育委員は立候補及び選挙制度が導入されている州が殆どであり、教科書が市民の参加のもとに選択されている。勿論、僕は素朴な市民主義者ではないので、市民参加がストレートに正常で妥当な選択を下すなどとは考えはしない。市民が参加することによって、スクリーニングの方向があらぬ方角へ向かう危険性も十分にわきまえている。が、それにしても、市民が参加することによって、閉ざされている日本の教科書検定制度が、事の始まりからして、権力の走狗になるための装置の役割を担っている、と気づきを得る可能性が大きくなるのではないだろうか?
学校という場に閉ざされた教師という存在は、あまりにも素朴に過ぎる。思想する力を骨抜きにされている、と言っても過言ではない。自分が教える科目の、土台となるべき教科書を様々な教科書会社から出版されている幾種類かのカタログの中から教えやすいものを選ぶ、とういうことしか頭にない。自分たちが選ぼうとしている教科書がそもそもどのような思想的な役割を担って創られているのか、という視点に立てないのは、一体どうしたことだろうか? 23年にも及ぶ教師生活の中で、僕の問題提起に耳を貸すような思想的な深化を持ち合わせている仲間に出会ったことは一度としてない。そんなことは誰一人考えてもいない。ずっと昔、家永三郎氏による教科書裁判の意味を諒解している教師が、現役の教師の中に一体どれほどいるのだろうか? 家永三郎氏は社会科の教科書を、検定制度というシステムが歴史の事実という存在を如何に歪めているか、ということを世間に問うた。しかし、もっとその考え方を広げる必要がある、と僕は思う。道徳や私学における無法に限りなく近い宗教という科目においても、家永氏の問題提起の意味は通用するはずである。もっと精査すれば他の教科の教科書にも必ず飛び火するはずの問題だろう。
特に、道徳や宗教というものは、学校という教育の場で教えてはならないものではないか? と僕には思われて仕方がない。このような科目自体が不必要なのではないか、とすら思われるのである。繰り返しになるが、この手の科目は、刷り込みの危険性に満ち溢れており、もっと言えば洗脳教育にも応用されかねないからである。学校現場にいる教師たちよ、あなた方はもっと思想を深化させるべきときなのではないか? そのように問いかけたい、と思う。今日の観想である。
○推薦図書「家永三郎対談集―教科書裁判の30年」 家永 三郎著。長い長い孤独な学者の、国家権力との闘いの記録です。<孤立を恐れず闘う>という思想の、剥き出しの力強さに触れてほしい、推薦の書です。ぜひどうぞ。
宗教法人の支配する私立学校における宗教教育は、その宗派が創った宗教パンフレットに限りなく近い「宗教」という教科書があり、カリキュラム化され、正当化されて教え、諭される。日本国憲法における信教の自由という考え方は、ここに至っては完全に中抜け状態なのである。信教の自由どころか、宗教とは元来そのときどきの権力と容易に結びつくが故に、政治と一体のものと考えて余りあるし、その意味においては宗教とは極めて政治に近しい存在なのである建前のとしての政教分離が唱えられているところでは「道徳」教育という名の刷り込みが行われ、<私学の独自性>という聞こえのよい、在野精神を気取った発想のもとに執り行われているのが「宗教」教育なのである。勿論厳密に言えば、どのような科目においても、冷徹に市民の視点からのスクリーニング(検定)をすれば、学問的土台の端々に、ときの権力にとって都合のよい思想が散りばめられていることも分かる。スクリーニング・システム(教科書検定制度)という装置が如何に危険な存在なのかが、その思想性の危うさなりとも、スクリーニングに参加した人々には伝わるはずである。
人間の思想というものが、言葉によって形成され、形成された思想がさらに深化されて、人の思想の構造を決定づけるとするならば、権力側の言葉によって埋めつくされた道徳や宗教という名の、洗脳のための装置としての科目がカリキュラム化され、学校という場で教えられ、評価される、というのは危険極まりない試み、悪意ある権力者たちの思惑が、制度化されているがゆえに、とても危険に満ちた事柄なのである。
僕の考えでは、勿論教科書検定制度そのもののあり方を正していくことがまずは早急になされねばならない問題である。教科書検定員の中に必ず投票によって選ばれる市民の、かなり大きなパーセンテージの参加者が導入される必要があるのではないか? 世界中にはこのようなシステムがすでに出来上がっている国もたくさんあるのだ。日本政府のお好きなアメリカにも各州ごとに教育委員会があり、教育委員は立候補及び選挙制度が導入されている州が殆どであり、教科書が市民の参加のもとに選択されている。勿論、僕は素朴な市民主義者ではないので、市民参加がストレートに正常で妥当な選択を下すなどとは考えはしない。市民が参加することによって、スクリーニングの方向があらぬ方角へ向かう危険性も十分にわきまえている。が、それにしても、市民が参加することによって、閉ざされている日本の教科書検定制度が、事の始まりからして、権力の走狗になるための装置の役割を担っている、と気づきを得る可能性が大きくなるのではないだろうか?
学校という場に閉ざされた教師という存在は、あまりにも素朴に過ぎる。思想する力を骨抜きにされている、と言っても過言ではない。自分が教える科目の、土台となるべき教科書を様々な教科書会社から出版されている幾種類かのカタログの中から教えやすいものを選ぶ、とういうことしか頭にない。自分たちが選ぼうとしている教科書がそもそもどのような思想的な役割を担って創られているのか、という視点に立てないのは、一体どうしたことだろうか? 23年にも及ぶ教師生活の中で、僕の問題提起に耳を貸すような思想的な深化を持ち合わせている仲間に出会ったことは一度としてない。そんなことは誰一人考えてもいない。ずっと昔、家永三郎氏による教科書裁判の意味を諒解している教師が、現役の教師の中に一体どれほどいるのだろうか? 家永三郎氏は社会科の教科書を、検定制度というシステムが歴史の事実という存在を如何に歪めているか、ということを世間に問うた。しかし、もっとその考え方を広げる必要がある、と僕は思う。道徳や私学における無法に限りなく近い宗教という科目においても、家永氏の問題提起の意味は通用するはずである。もっと精査すれば他の教科の教科書にも必ず飛び火するはずの問題だろう。
特に、道徳や宗教というものは、学校という教育の場で教えてはならないものではないか? と僕には思われて仕方がない。このような科目自体が不必要なのではないか、とすら思われるのである。繰り返しになるが、この手の科目は、刷り込みの危険性に満ち溢れており、もっと言えば洗脳教育にも応用されかねないからである。学校現場にいる教師たちよ、あなた方はもっと思想を深化させるべきときなのではないか? そのように問いかけたい、と思う。今日の観想である。
○推薦図書「家永三郎対談集―教科書裁判の30年」 家永 三郎著。長い長い孤独な学者の、国家権力との闘いの記録です。<孤立を恐れず闘う>という思想の、剥き出しの力強さに触れてほしい、推薦の書です。ぜひどうぞ。