ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

思想が世界を変える !

2008-03-22 23:43:04 | 哲学
○思想が世界を変える !

人が幸福になれるかどうかの分かれ目は、その人の思想が変わるかどうか? という課題に直結している。自分を取り巻く世界は人が幸福になる以前も以後も、同じように存在しているのである。しかし、その世界は自分の裡の世界観が狭隘であれば、どこまでも狭く、息苦しいものとなり、反対に、自分の裡なる世界観が広がれば、自分の目を通してその広がりを感じ取ることが出来る。換言すれば、思想が変われば、世界が変わるのである。小さな、個としての人間存在が、どこまでも広がりを持ちはじめる契機は、個としての世界像を力勝負で押し広げていくかどうかによって決まるのである。それは、限りなく収斂していくか、どこまでも拡大していくかのいずれかであって、その中間点などは存在しない。西欧の中庸の精神とは、中間点における妥協を意味しない。中庸とはあくまで世界が拡大していくプロセスにおける、瞬間、瞬間の経過の断面図である。中庸と中途半端をごっちゃにしてはいけない。これを間違えると、自分の中の単なる怠惰で、中途半端な心境が、中庸という言葉と刷り変わる。凡庸な精神とは、たぶん限りない進歩の中断を、中庸と錯誤した結果の無残な末路である。

どこまでも広がり続ける精神、これが人間のあらゆる可能性を広げる唯一のファクターではないか? それ以外の要素を付け加える必要などないのである。思想が変われば世界像が変わるというのは、あくまで、拡大し続ける精神を己れの裡に育み続けること。あるいは、精神の拡大に懸ける意欲を持ち続けることである。精神が広がり続けるような心性こそが、他者を受容する器を拡大させる。その意味においては、人間にとって主観の広がりこそが大いなる可能性を秘めているのであり、世界観を広げる鍵でもある。世界観が広がる過程で、人の客観的な視点が養われる。思想とはあくまで観念のドラマであり、主観的視野の連続的な広がりであり、その行き着く果てに、客観的世界像の拡大の可能性が秘められている。この意味合いにおいてのみ、思想の客観性という概念が生み出されることになる。したがって、思想=客観性という関係性は成立しない。主観→思想→客観性という流れだけが成立するのであって、思想が直接的に客観性を現すのでは決してない。これは、誤った唯物論者の寄って立つ思考回路であり、思想に磨きをかける唯一のファクターが客観性であると断定するような、過去の蒙昧な誤謬に過ぎない。敢えて結論づけて言うが、思想とは主観によって形づくられた思考回路のことを言うのであり、主観によって成立した思想が、物事の客観視を可能にするのである。

具体的に考えてみればそのことがよく分かる。たとえば小説世界とは、人間の主観的な思考が生み出した壮大なドラマであり、恐らくは人間が思想という考える道具を身につけ得るのは、廃れ果てた唯物論者たちの夢の産物である客観というレンズを通して世界を視るからではなく、小説世界のごとき、作者の主観が生み出した世界像に触れることによって、思想の膨らみがもたらされるのである。客観性とはあくまで、主観的思考回路が開けてから想起できる知的領域の一部分に過ぎない。客観性だけで屹立するような世界観などは存在し得ないのである。

我々を取り巻く世界は確実に拡大し続ける。そして、世界が広がり続けるのは、我々の脳髄が生み出した主観という思考の有り様が、無限に生み出され続けるからである。小説といい、哲学といい、科学といっても、それらは全て、人の主観が生み出し、発見したものであり、かつての科学的という名の、客観的世界観という誤謬は、もはやこの世界には存在不能であり、成立無効の存在に過ぎない。人間が生み出す主観的世界像こそ、生き生きとした光輝くような世界を創る根源的なファクターである。だからこそ、我々の創造世界は限りなく無限に近い存在なのであり、この事実に覚醒し得た人間にこそ、世界という存在を押し広げる力が宿るのである。少なくとも僕は、このように信じて世界を生き抜きたい、と思う。今日の観想である。

○推薦図書「ホテル・クロニクルズ」 青山真治著。講談社文庫。幾重にもしかけられた語りの隙間から溢れだすエロスの中に、壮大な世界が見えます。楽しんで読んでください。

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