ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

内省という作業

2008-03-30 21:39:10 | 観想
○内省という作業

人生という劇場において、人はしばしば自己制御不能な事象にぶちあたる。これは当然のことだ。生きる、ということは、どれほど財産があろうと、人間関係に恵まれていようと、社会的地位が磐石なものであろうと、その人に応じた過酷な出来事が生起するものなのである。自己の価値観さえ揺るがすような大きな出来事の前に、人々はしばしば立ち止まり、そしてその壁の前で、自分の取るべき態度を決める。これが人の生きかた、という問題の本質である。立ち向かうことすら不可能に見える壁の前で、思案し、元の道を引き返す人たちは、予てから抱き続けている苦悩の底に留まることを選択しているのであり、その人の人生は、酷なようだが負け戦だ。あるいはそれに比して、不可能性を感得しつつも、その壁に抗い、壁を突き抜けるがごとき穴を穿つだけのエネルギーを持てた人たちは、限りないエネルギーを体得することになる。もうこうなれば怖いものなど存在しない。後は各々の人生の可能性に懸けて突き進むだけである。生の可能性は無限大に広がるわけで、こういう生を生き抜いて迎える死ならば、それすらも悦んで受容することが出来るはずである。これを生のダイナミズムと言わずして、何が生か? 苦悩から人は解放されることはないが、同じ次元の苦悩にまみれているだけの生など、いったい何の意味があるというのだろうか? 過去の苦悩を乗り越えて、新たな苦悩に立ち向かう勇気、これを内省の意義と定義しておきたい、と僕は思う。内省のない人ほど、慣れ親しんだ苦悩を後生大事に抱いたまま、生きている。だから同じ次元の苦悩を、生きる場を変えても、ずっと抱き続けることになる。内省とはあくまで、止まって考え込むというのではなく、常に前進する勇気をもたらしてくれる福音である。

そもそも何も起こらない、己れの可能性を超えた苦悩を伴わない人生など、生きている意味すらないではないか? それなら横になっておけばよい。何なら自ら死を選びとってもよいではないか。守りに入った人生などに、何の魅力もない。それは永遠の宙づり状態であり、そんな状況に甘んじるなどということ自体が、自ら進歩を閉ざした結果の負の哲学に他ならない。負の哲学に魅入られた人々は死の洞察に埋没するものだが、それは精神のマスターベーションそのものであり、己れの内実を見ようとしない怠けた心性である。要するに、内省の欠如が生み出した結果に過ぎない。こういう人々に進歩という言葉は当てはまらない。後退するばかりである。後退する人生の意味があるなら、聞かせてほしいものである。少なくとも僕は、そんな人生、まっぴらなのである。

内省こそが、己れの主観の次元を高め、高みの上から世界を見渡すことの出来る唯一絶対の要素である。そこにこそ、生における進歩の概念が芽生えるのだ。守るものなど人生にとっては何もない。守りに入った生に未来はない。後退だけが待ち構えているのであり、後退は死と直結しているが故に、死んだように生きていくしかない。そんな生きかたに希望などという概念が芽生えるはずもない。絶望の苦い味だけを味わうようなことだけは避けたいものである。どこにも逃げ道などない。それならば、敢えて困難な道を駆け抜けようではないか! 内省によって、己れの克服すべき課題を見出し、あくまで失敗にまみれながらも、生を生き抜かずして、生きている実感など感得できるはずがないのは必然である。敗北感にまみれてナンボの人生だ。それでよい。敗北を恐れることなど無意味である。そのために内省せよ。内省のない生は、知恵を持った人間のとるべき態度ではない。何より自分の人生を空費しているだけで、どのような果実を生み出すこともない。無駄飯食いは去れ。敢えて僕はそう言いたい。また敢えて、僕は無様な人生を生き抜きたい。それが僕の覚悟である。

○推薦図書「これからはあるくのだ」 角田光代著。文春文庫。エッセイ集です。一見して軽い随想に感じられますが、この書には、人生の深い課題が潜んでいます。読書に疲れた折にでもどうぞ。軽く読めて、深い読後感が味わえます。ぜひ、どうぞ。

京都カウンセリングルーム

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃