ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

美と醜と

2008-03-23 23:44:29 | 哲学
○美と醜と

美しい、とはいったい、人間のどのようなところから発せられる概念なのであろうか? 美しいと感じる対象が人であれ、事物であれ、そのような感覚を裡から呼び覚ましてくれるのは、思想の力である。異性を美しい、と感じ取ることの出来るのも、深い思想に裏打ちされた概念でなければ、それは単なる表層的な美の感受としての意味しかない。かつては美しいと感得したはずの対象者に対する、見当違いの考えは、まさに憎悪や復讐や怨念という真逆の行為に簡単に移行してしまいかねない。こういう人間も確かに世の中には存在するが、僕はこういう輩の存在を認めない。何故なら、この手の輩に限って、美しさを感得する能力、資質に欠ける人々だからである。何も差別的な言辞ではない。もしも、僕の言葉の中に、そのような響きを感じ取られた方は、このように解釈して頂きたい。美を感得できない人は、まず間違いなく、自分の思想を鍛えることを怠ってきた人々であり、怠けた心性から湧きだした感覚は、これもまず間違いなく、表層的な美しさを美と錯誤していることを意味する。僕は始祖的に怠惰な人間が嫌いだ。これは躊躇なく言っておきたい。何より自己を磨く姿勢に欠ける人は怠慢である。そういう輩を相手にしている時間はない。生の時間は限られており、それも一回きりの人生なのである。人や事物の美を、己れの思想に照らし合わせて、その人なりの思想的な美の受容が出来ないような人は、人としての意味がない。別に生きている価値がない、とは思わないが、こういう人たちは必ずと言ってよいほど、自分を甘やかし、他者に迷惑を懸けて憚らないからである。

美を感得する能力は、審美主義者でなくとも、容易にその根幹をなすものは、人間の主観が決定する概念であることに気づく。美の意義を深く識りたいのであれば、まずは自分の裡なる美意識の現況の分析からはじめるべきである。それが出来ない人はまず美を感得できる範疇からの脱落者である。美意識の現況が分析できたら、その深化を目指すこと。そうすれば、表層的な美しさに騙されることはないし、美しい人や事物の、内面深くに闖入して、内面の美を引き出せる。表に現れた美と内蔵している美との総合的な姿を総称して、美しい、というのである。そして、両面からの美に対する認知が在れば、その美の対象者に対する美意識の深化がはじまるのである。さらに言えば、この時点から、美意識よりも高度な愛の概念性が生じて来る。その意味合いにおいて、美と愛とは結合する。美と愛とが結合した時点から、愛の深化がはじまるのである。表層的な美に浮かされている心境、あるいは、個性を美との反対概念としてのを醜というのである。醜悪というのは、何も表面的な不格好さや、姿形の多少の不均衡さを指して言うのではない。それはあくまで美を感得することの出来ない状態のことを醜と称するのである。その意味において、美の反対概念が醜という短絡はぜひとも避けたい誤謬である。

表層的な美しさが愛されるのではない。内面的な美しさだけが愛されるのでもない。両者一体の、総合体としての美しさを感得できる力、能力が在ってこそ、美を正当に感受でき、愛の意味を識ることが出来るのである。美しい、とは、静止した概念を意味しない。それどころか、美しい、とは、常に深化しつつ動き続ける存在なのである。だから美には、静はなく、常に動の意義が内包されている、と断言出来る。静かに佇む女性の美にも、その内面に躍動しているはずの美の実質を見抜いていなければ、愛などたとえ芽生えたにせよ、それはあくまで一面の真理なのであって、一面の真理は、それ以上の深化を望めず、必ず挫折する運命に在る。挫折して、醜の方向へ傾斜し、醜悪な現実を招くだけのことである。

美を深化させること。そして、さらなる愛の深化を感受する力を得ること。これが目下の僕の課題である。

○推薦図書「恋愛の昭和史」 小谷野 敦著。文春文庫。作者の叫びは、「恋愛をしているつもりの人、あなたは何もわかっていない ! 」という言葉に凝縮されています。愛の普遍化としての意義、その文明史論的考察は、なかなかに深いものがあります。ぜひどうぞ。

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