ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

収縮する言語と拡散する言語

2009-12-02 22:24:22 | 観想
○収縮する言語と拡散する言語

収縮と拡散とは、言葉の正確な意味においての反意語であるかどうかについての確信はないが、ここで書く内実については、僕としては、この二つの概念を明確な反対概念として捉えておきたいと思う。さて、今日問題とすべきは、言語における収縮と拡散についての論考である。なぜ、この課題で書こうと思ったのかと言えば、昨今、コミュ二ケーションが他者との間でうまくとれないという嘆きの言葉をよく耳にするからである。コミュ二ケーションとは他者との言語交通の別称であるが、コミュニケーションが他者とうまくとれないという現象は、換言すれば、言語交通の回路に、ある種のひび割れ、捻じれ、綻び、あるいは壊れのごときものが、言語交通の回路を、何ほどか遮断していることによって起こり得ることなのだろう、と推察する。

言語交通回路に生じた、ひび割れ、捻じれ、綻び、壊れといった崩壊現象は、人のことばが他者に対してどのように投げかけられ、そして投げかけられたことばがどのようにして返ってくるか、といったプロセスの中で、ことばそのものが、収縮する方向へまっしぐらに向かっているのか、はたまた、ことばが、拡散する方向へとただただ向かって後、消失してしまうのか、のいずれかであろう。

僕がまだ青年だった、ずっと昔に、日本においても世界が変わるという、かなり幻想的ではあったが、しかし、同時に、世界を変えようとする人間たちにとっては、まがいものでない現実として認識されていた時代的背景の中で交わされたことばとは、それが政治的言辞であれ、文学的なそれであれ、哲学的であれ、言語はすべて結果的には拡散するがごとくに、大気中に消失していったものと思われる。無論、あの頃、言語は確かな有効性をもってはいたにせよ、世界を変えようとしたくはない、つまりは現実世界から実質的な利益を得、権力を手中にしていた人間たちは、有効だったはずの言語を、経済という飴を使って無化したのである。その結果、世界は変容することなく、同じ資質を凝縮、収縮させていったことになる。

21世紀という現代における収縮した言語が支配する世界において、人間のコミュニケーションは、拡がりを持てず、価値の相対化などという幻想が飛び交う中で、ますます言語そのものの収斂されたかたちへと向かっていくような気がする。かつての青年たちのことばが、大気中に拡散し、果てたのに対し、現代の青年たちのことばは、収縮の過程で、自ずと、呟きと同義語的な言語交通しか持ち得なくなってしまった感がある。呟きとは、それ自体の価値しか持ち得ず、他者との単純な会話においても、ひとりひとりのことばが、虚しい独り言のごとくに聞こえる。収縮が行き着く果ては、言語交通そのものの遮断だからである。だからこそ、拡散しつつも、大気中のあらゆる存在物にぶつかり、ひっかかり、ぶら下がる言葉を僕たちは獲得していかねばならないのではあるまいか?換言すれば、僕たちが、この世界に再び拡がりをもたせることが出来得るとしたら、それは拡散しつつ、しかし、その残存物の足跡が残る言語の獲得以外に道はないように思う。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃