ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

年の瀬に想う

2009-12-31 23:18:58 | Weblog
 何だかんだといいながら、一年なんてあっという間に過ぎ去り、しかし同時に、じっくりと思い起こしてみれば、結構たくさんの出来事が起こっていて、自分の考え方もそれにつれて大きくブレているのが分かる。そう言えば、2009年のはじまりは、ずいぶんと無茶をやらかして結婚した相手との別れから始まった。お互いに諒解した離婚になるはずだったので、2008年の年末に離婚届けを相手に託したら、新年早々のメールで、調停にかけたとの知らせ。人間って、理解し得ない関係性など、とりわけ男女のそれは、徹底的に深みにはまり、心の傷が深まるばかりである。たった5カ月の結婚生活の破綻劇だったが、同じ地球上に棲みながら、まるで違う精神の次元にいたようで、それならなんで無茶な結婚をしたのかと問われると、自分でも論理的な説明が一切できないから不思議である。相手が一方的に悪いなどという卑怯な考えは持ち合わせてはいないが、それにしても、一年の約半分の時間を不条理な世界に身を浸していたわけで、その後の調停に巻き込まれて、ずいぶんと心腐った。

 たった二人の問題に過ぎないが、信頼し得る人々にずいぶんと迷惑と心配をおかけした。思い立ったら体が先に動いているという個性だったが、この離婚劇に纏わる出来事の多くが、単なる突進型の単純な思考しか出来ない僕の思考回路を幾分柔軟にさせてくれたのかも知れない。その後の猪突猛進型の思考の名残で取り組んだ小さな事業の完璧な失敗とが、立ち直りのきっかけを与えてくれたと思う。それにしても、自己の存在意義を根底から揺さぶられ、生きる確信を失っていた僕など、他者からは見放されても致し方のない存在であって当然だったが、それでも支えてくれる人がいるもので、人の情けが身に沁みた。心底ありがたい、と思う毎日であった。存在論的な次元でいうと、生と死との境目などないという思想に変わるところはなく、何かの拍子で、生死のどちらにでも惹きつけられる個性だが、いま年の瀬に2009年を振り返ってみると、結果的には、かつての自分と比べると、ずっと強く生のベクトルの方へ惹きつけられていた感がある。

 2010年を生き抜くことが出来るのであれば、長命を望んではいない自己であるからこそ、さらに濃密な生を実感したいと思うばかりである。「さらに」と書いたのは、腐れた人間などはもう相手にはしないが、尊敬に値する人たちとは、誠心誠意のお付き合いをしたい、と願う。尊敬に値するとは、年齢の高低なども、職業なども、男女の違いなどの区別をすることとは真逆に、残り少ない人生であればこそ、あらゆる世間的な価値意識のバリアを取っ払って、学びとりたい人々と人間的な関係性を深めたいし、新らたな出会いにも鋭敏な感性を持ちたいと思う。無論その価値基準とは、僕には到底追いつけない意識の高さを持った人々との関係性を大切に育むということでもあり、そういうプロセスの中から自己の中に幾分なりとも精神の柔軟さと斬新な発想の原型が創造出来れば、という想いで、この一年を締めくくりたいと思う。

 ところで、いま隣の部屋では、何が出演基準かもわからなくなった、紅白歌合戦の出演者の歌声が聞こえてくるが、どうしてもいまだに分からないことがある。EXILEというグループのことだ。二人のボーカリストの歌のうまさはずば抜けているし、僕も大ファンの一人だが、二人の他に、後ろで踊っているメンバーの意味はいったいどこにあるのだろうか?確かにダンスはうまいのだろうが、それこそ、EXILEを支えている二人の優れたボーカリストの他に、メンバーとしてのダンサーがなぜ必要なのかがまるでわからない。メンバーの数も7名から14名に倍増しているのはどうしてなのか?さらに、EXILEというグループ名をなんの意味があってつけたのか?EZILEとは、国外追放、亡命(者)をさす英語だろうに、彼らに異端者の要素などどこにもないではないか。この間などは、天皇誕生日に歌とダンスを天皇さんの前で披歴していたではないか。体制べったりなのに、何がEXILEなのかが、意外に僕が拘っている疑問なのである。さらりと歌っているようで、カラオケで真似てやろうとしてもまったく歌えもしないほどの次元の高さだ。体制べったりでも別に構いはしないが、EXILEというグループ名をつけた意味が分からないのは、何故だか、引っかかりが大きいのである。それにしても、2009年の年の暮れに際しては、あまりにもつまらない観想になった。来年度が思いやられる気もするが、志だけは高く、と思う。みなさんもよいお年を!

老いの美しさの意味をはき違えたらアカンよ

2009-12-31 04:08:22 | 観想
老いの美しさの意味をはき違えたらアカンよ

科学の発展がいびつなために、とくにその中の医学というジャンルは、何のための医術なのか、という思想を確立できないままに、人間の命をただただ、引き延ばすことに躍起になっているのではなかろうか。確かに平均寿命は延びた。厭になるほどに。しかし、80歳、90歳まで生き延びたとして、いったいそれが何になると言うのだろうか?物事の表層的なことしか考えないヒューマニスト諸氏には猛烈な批判を受けそうだが、僕に言わせれば、人間が生きて、老いて、その過程の中で、あくまで老いという現象を評価の対象から除外した上で、現役のままの人間として何ものかをなし得るのは、僕の考えでは50歳くらいまでではなかろうか、と思う。それ以後の生は、何ほどか無意味な要素を孕んでいそうな気がする。こんなことを書いてはいるが、自分自身のことは全く参考にはならないと思う。僕の場合は、50歳を遥かに超えてしまっていまだ生きながらえてしまったが、自分がこの世界に生み落とされたこと自体が間違いだったような気がするくらいだから、本当はこの種のことを書くこと自体に何らの説得力などないのかも知れない。その上、僕は、世の中のために何一つまともなことをなし得ていない。無駄飯食いとは僕自身の存在の実相をよく言い当てている言葉であると思う。早々にこの世界から立ち去るべきか、とかねてより思い、何度も生とは真逆の場に自分を置いてはみたが、なぜかその度に無意味に復活してくるのはいったいどうしたわけか?

自分のことはとりあえず、このくらいで留保しておくが、昨今の多くの人々は長く生きたいと思っているらしい。僕自身の思想から言えば、何となくウンザリもさせられるが、長く生きたいのであれば、その生き方に対しては、少し言いたいことはある。長く生き抜くということは、自分にのしかかってくる老いという現象を引き受けるということでもある。言うまでもないことだが、老いとは、若さが持つ美しさを喪失する過程でもある。体力の衰え、肌のツヤがなくなり、皺も増える。白髪が目立ち、あるいは白髪さえ喪失し、禿げチャビンの頭を晒すことでもある。このような老いの姿に対して、昨今では、誰もが醜悪だと感じてしまうような思想が蔓延していると思う。美容整形でいくら姿かたちの各部を修正しても、限りがあるだろう。若さを保つためのさまざまなサプリにもある程度の効果があるにせよ、いっときのものだろう。その他数えたらキリがないほどに、若さを保持するための方途は、その市場を狙う業界の思惑によって、尽きることなく新たな商戦が繰り広げられ、有り余るほどのアンチ・エイジングの商品がどっと押し寄せるように、垂れ流される。

このような若さを保たせるという思想、経済の論理は、その底に老いることは醜いという考え方を積極的に醸成させる。しかし、このような思想こそが醜悪だと感じるのは、アンチ・エイジングの思想には、老いというプロセスで若さにはない老いた美しさもあるということが欠落しているのではないか、と思う。肌の色艶が失せた後に残るもの、皺が増えたことで、果たしてそれを美と対極のものだとなぜよく考えもしないで、すでに喪失した若さゆえに持ち得るあらゆる要素を取り戻そうなどという不可能なことに血道をあげるのだろうか?老いる過程で表出する美しさになぜ気づこうとせずに、単純に若さを奪還すべく無意味な試みを繰り返すのだろうか?ならば、若さとは、掛け値なしに美しいのか?若さが有する人間の特徴をあまりにも誇大に、そして、絶対的な美の原型とするような思想が蔓延してはいまいか?こういう思想は繰り返しになるが、多分に経済の論理が底に在るはずなのだ。そのことに僕たちは、老いも若きも気づいておかないと、金の亡者たちの餌食になるのがオチである。その上、美意識に対する価値観すら操作されてしまう。

いまは、老いという過程に、思想の深化という要素を絡めるのを避ける。これを書いている目的はあくまで、老いの美的な意味を再考することである。人間の生涯の中で、若さの只中に身を置ける時期の方が圧倒的に短いのである。人間が本当に美しさを増すのは、老いの影が忍びこんで来始めてくる頃からだ。僕の裡では、長命など決して望んではいないが、それはあくまで己が生きる意味を喪失しているからであって、老いを回避したいという意味は皆無である。もしも何かの間違いでこれ以上長く生きることになるのであれば、僕自身は老いのプロセスを味わってこその、人生の終焉の意味があると確信する。生きているなら、僕は大いに、老いの美を慈しむ男でありたい。特に異性に対しては。若さゆえの美しさを感じたくもなるだろうが、それは、スクリーンの向こうに飛びきりの美女がいつの時代にもいるではないか。日常性の中の若き異性にはもうあまり興味はない。そういうことは、あくまで幻像としての存在を感受する機会があれば十分だ。それよりは、老いることに美を感じる感性を養いたいものである。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃