ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

自由と禁忌

2009-12-19 05:08:27 | Weblog
 江藤淳の評論集にも「自由と禁忌」という優れた作品があったと思うが、今日僕が語るのは、もっと卑俗な問題に関してである。人間の自由とは、どこまで自由であり得るか、また、自由というものを自己の精神のコントロール下におけるものなのか、ということである。

 テレビの番組を観ていて、いま民主党も沖縄の基地問題と、アメリカ政府との板挟みになって、明確な答えを出せずにいる。やはり戦後以来の長年にわたるアメリカの実質的な政治的・経済的属国になり下がっていたことで、民主党にもたくさんいる元自民党議員たち、あるいは、小説家であり続けていれば、なかなかの作品を書き遺せたと思われる、自民党から東京都知事に転身した石原慎太郎、いまや大阪庶民の代表を気どっている橋下大阪府知事、沖縄の基地をアメリカに撤退させた後の、基地労働者たちの代がえの仕事を創設するために、沖縄に大規模カジノをつくればどうかと提案している亀井静香、想いはそれぞれに違っても、日本にラスベガス規模のカジノをつくり、そこからの税収や労働市場を広げようとしている動きは、かなり大きなうねりとなってきているように思う。それを報じている番組の司会者、コメンテイターたちもこのような動きに反対するよりは、かなり良心的とも思える人々も賛意を表している始末である。アホか、と思う。

 どのようなものであれ、ギャンブルに纏わる悲劇は、枚挙に暇がないほどであろう。ギャンブルに関わる悲劇を報道しながら、賭博というものの存在を経済の論理だけで、その暗部に目を向けようとしない輩がいるのは、哀しい現実である。ギャンブル依存がどれほどの悲劇と、依存症に陥った当人の人生を取り返しのつかない状況に追い込むかに関して、もっと全体的な視野に立った議論をすべきであろう。アジアの新興諸国にはすでに国営のカジノがあり、めぼしい国としての日本にカジノがないのは、おかしいなどと彼らはのたまわる。アメリカのラスベガスをディズニーランドのように語る女性コメンテイタ-もいたりするが、たとえば、自分の娘がラスベガスにたむろする売春婦にでもならねば、悲劇を実感できないのかも知れない。ギャンブルという場に寄り集まってくる諸々の要素に、まともなものを探す方が困難なのである。そもそも、ラスベガスは、アメリカのマフィアが巨額の資金を投入して創り上げた巨悪の資金源を生み出すために生まれた砂漠の中の蜃気楼のような存在であることを忘れるべきではない。石原慎太郎などは、法律が悪いなどと平然と言い放つが、日本の法律では、カジノを賭博として公営させることを禁じているのは、真っ当なことだと思う。日本の賭博に関する法律は、勿論矛盾だらけではある。競馬や競輪や競艇が公営ギャンブルであるにも関わらず認められていることこそが、そもそもおかしいのである。競艇のドンであった笹川良一などは、もとA級戦犯の極右ではないか。日本の政治や経済の暗部を支え、保守党政治家への金をばら撒いていたのも、笹川をはじめとする、大物右翼が企業家きどりで、表社会に出てきたからこそなし得たことである。もちつもたれつの関係性は、その陰でどれほどの悲劇を生み出し、庶民の犠牲の上に成り立った悪徳であることを今こそ思い出すべきときである。

 しかし、もっと突っ込んで考えれば、人間とは度し難い存在であり、自由が手に入れば、その瞬間から悪徳が生み出される。かと言って、自由の禁忌が強烈に働けば、晩年の毛沢東が実行した文化大革命のごとき、思想の自由からかけ離れた施策になり下がる。大量の粛清、政治思想の強烈な統制などによって優秀な人間がどれほど犠牲になったのか、もはやいまとなっては、正確な数も知り得ない。

 自由と禁忌とは、あらゆる分野において、人間が人間として生きるために試されている両極の反対概念である。人間に、平行棒のごとき、中庸の論理は根付かないらしい。こういう限界性の只中で生きること。これが僕たちの生の姿なのである。致し方ない。