ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

肉体を鍛える!

2009-12-07 01:08:19 | 観想
○肉体を鍛える!

とは言っても三島由紀夫のごとく屈折した、三島のドグマティックな日本的武士道精神などとは何の関わりもないし、関わりたくもない。かと言って、昨今大流行りのメタボ追放の流れに乗っかったトレーニングでもない。僕は別にメタボが醜悪などとは全く思ってはいない。腹の突き出た中高年も昭和の時代は大人の象徴だったわけで、男が着物を着るとなると、いくら腹筋が左右で割れ、筋肉のコブが何個にも別れ、それが目立っていても、肝心のお腹の脂肪がとれ、ペッタンコであっては、貫録どころの騒ぎではない。ビールとタバコと日ごろの不摂生で、デンと突き出た脂肪たっぷりの腹の出っ張りが、昭和のお父さんの着物姿を美しく見せたわけだし、それこそが、昭和という時代の、父親という存在がいまだ家庭の中で、厳然たる力を保っていられた象徴的な姿だったのではなかろうか。勿論、こういうお父さんは、55歳定年であり、つまりは現代のような長命ではなかったわけである。退職後の数年後には多くのお父さんは脳溢血か、心筋梗塞かであっさりと、自分の役割を果たし、この世界から去っていったのである。

日本人の平均寿命は、トータルでは世界第一位の平均寿命の国になった。医療の発達は大きな貢献をしたことだろうし、悪性のガンや難病でもなければ、もう生きるのはいいや、と思ったところで、なかなか死なせてもらえないのが現実だ。オランダやベルギーのように、法的に安楽死が認められてはいないし、患者が亡くなってから後に患者の家族が、担当医や病院を相手どって医療訴訟を起されるのを医師は怖れているものだから、何が何でも延命治療をすることが日本の医療の基本である。本人がもういいと医師に伝えたところで、家族の意向によって、医師は自らの身を医療訴訟という場に置くわけにはいかないわけで、この点に関しては、死を望んでいる患者も、それをかなえてやれない医師も気の毒な話なのである。昨今は、こういう悲惨な状況の見直しがなされつつあるようだが、まだまだ法制化にも至っていないし、不完全なものだ。

さて、なぜ僕が長年自分の体を鍛えるのを怠ってきたのかと言えば、昔のお父さんたちのような脂肪がたっぷりとたまって突き出た下腹になるまで、好きなように飲み食いしてやろうと思ったからである。つまりは、体にいいことなど一切やらないと心に決めたのであり、その結果、突然死でも自分に訪れればそれでよいではないか、と決め込んでいたからである。しかし、考えてみれば、酒は、高校2年生のときに、悪友が安物のウィスキーの大びんを持ってやって来たときに、飲み方も知らないままに、二人で1000mlほどの瓶を、ストレートでぐいぐいやったら、しっかりと急性アルコール中毒になって死にかけた。天井と床の区別もつかないほどの苦しみを経験したので、後年、酒に酔って気分がよい、という感じになると、あのときの悪夢がトラウマのように襲ってきて、酒はまるでダメなのである。タバコは、教師時代は一日に100本は吸う筋金入りのチェインスモーカーだったが、殆ど全体主義的とも言える嫌煙権運動に嫌気がさして意地で止めた。タバコくらいと思うだろうが、日に100本ともなると、すっぱりと止めると幻影が見える。気がつくと、真夜中に何度もタバコの自動販売機の前にいて、ハッと気がついたなどという洒落にならない経験だってある。だから僕は、昭和のお父さんたちが、大手を振って大酒を飲み、タバコをふかしながら仕事をし、家庭でもスパスパとやっているわけにはいかないのである。なんだかとても健康で、それなら、たぶん中高年の心臓には悪いだろう、ウェイトトレーニングをやってやろうじゃあないかと、10年ぶりに再開した。当然、どこかのジムのトレーナーなどにつくことはない。だって、健康のためにやっているのではないんだから。

僕だって、ウェイトトレーニングの常識はよく知っている。本格的に筋力をアップさせるためには、筋肉の適度な休養が絶対に必要だ。それが筋肉を発達させ、筋力を増強させ、結果、健康になる。しかし、僕の目的は、トレーニングの途中で何かの拍子に、心臓でも止まってくれないか、と思いながらやっているのである。当然筋肉など休ませてやらないのである。だから極限まで追い詰める。筋力トレーニングは毎日やるのはご法度だが、最もキツイ方法で毎日自分を責め立てる。朝は、体がギシギシと音を立てている。僕の意図どおりに事が運んでいるのかどうか?なんだか、近頃は、ずいぶんと腕も太くなったし、胸板も厚くなった。まあ、これなどは単なる見た目のことだから、僕の思惑どおりに、ある日電球が切れるようにパタリと逝くのかも知れない。それでよい、と思う。あまり思い残すこともない。そんな想いで、毎日自我流のトレーニングに僕は励んでいるのである。やっぱり僕はアホなんだなあ、と思う。ただ、三島のようには、自分の死を美化しない。それだけは確信がある。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃