これまで僕がいろいろなところで書き綴ってきた日記は、800を超える。読み返してみると何とも自分でも閉口するような内面の葛藤が開陳されているようで、恥じいるものがたくさんある。自分では長年の人生の過去の総括などとうそぶいていたわけだが、もし僕に、自分の脳髄に溜まった思念を言葉にする能力のひとかけらもなかったとしたら、たぶん、酒でもカっくらってクダをまいては、その時々のうっぷんを晴らすことで十分な内実であるような気がしてならない。2009年という年を終えようとしているいま、僕が反省すべきことは、自分に対する恥の感覚の欠如だったのかも知れない。
しかし、だからと言って、たとえば、僕に自己の内面の葛藤を普遍的なかたちーたぶんそれは小説という形式が最もふさわしいのだろうが、小説世界を構築するような知的能力にはちと欠ける。残念だが、認めざるを得ない事実だろう。詳細を書いてもこれを読んでくださる方にとっては、何の興味も湧かないことなのかも知れないので割愛するが、今年は、自分の実生活上の、特に生きる術に関する新たな試みをいくつか試みた。大失敗もあり、またその他のこととて、何一つとして、大いなる成果を出しているとはとても言い難いのである。たぶん、大きな意味で、僕には生きる力と称して差し支えないと思うが、それに関する嗅覚のごとき才に欠けるのだろうと感じる。青年期の極貧の生活が、自分をしっかりと見極める時間の余裕を与えなかった。よく考えもせずに手近なところで、生活の安寧という誘惑に負けた。長年の平凡な教師生活の中で、子どもをつくり、家も飽きずに3度も建て、銭金の心配もなく、惰眠を貪るように生きた。細々とした反抗の精神の頼りなげな表現の持続の堆積で、学校経営者から恨みをかうことになって、追放された。それ以後の、今日に至るまでの生のありようはどのように控えめに見ても生活者としても失格だろうし、長年の怠惰がたたって思考する力も衰えた。紙つぶてを投げつけるごとき駄文を書き散らすことで、自己満足のいくばくかを満たしていた感がある。
さて、今日の表題の意味することだが、2009年が過ぎ、その次の年に突入しても、駄文を書き続けることに変わりはないのだろうが、これまでの駄文の中に時折混じる自己憐憫は、自分で再読していても、単なるナルシシズムの変形に過ぎず、そこからは、どのような意味においても、過去に縛られた自己解放の道筋は見えては来ない。もっと言えば、自己憐憫に支配された精神では、新たな才、あるいは眠り続けていた才(もし、それらがあればの話だが)の発見と開拓など到底出来はしないだろう、と思う。2010年は、このような気づきに対して、真正面からぶつかっていけるだけの胆力をつけること。そして、そもそも不可能なのかも知れないが、自己の能力の開発に取り組むこと。これがいまの僕の課題である。これを読んでくださっている方は、いかにも頼りなげな観想を持たれるだろうが、僕にとっては、ここを乗り切らねばこの世界に生を授かった意味がないと、青臭いかも知れないが、かなり真面目に考えている。まずは己の裡なる自己憐憫を捨てきること。これが目下の課題である。僕の駄文に付き合ってくださるみなさんには、たいそう退屈な想いをさせてしまいかねないが、時代劇でいうところの真剣勝負である。そのような2010年にしたい。いや、そうしなければならないと心底感じているのである。
しかし、だからと言って、たとえば、僕に自己の内面の葛藤を普遍的なかたちーたぶんそれは小説という形式が最もふさわしいのだろうが、小説世界を構築するような知的能力にはちと欠ける。残念だが、認めざるを得ない事実だろう。詳細を書いてもこれを読んでくださる方にとっては、何の興味も湧かないことなのかも知れないので割愛するが、今年は、自分の実生活上の、特に生きる術に関する新たな試みをいくつか試みた。大失敗もあり、またその他のこととて、何一つとして、大いなる成果を出しているとはとても言い難いのである。たぶん、大きな意味で、僕には生きる力と称して差し支えないと思うが、それに関する嗅覚のごとき才に欠けるのだろうと感じる。青年期の極貧の生活が、自分をしっかりと見極める時間の余裕を与えなかった。よく考えもせずに手近なところで、生活の安寧という誘惑に負けた。長年の平凡な教師生活の中で、子どもをつくり、家も飽きずに3度も建て、銭金の心配もなく、惰眠を貪るように生きた。細々とした反抗の精神の頼りなげな表現の持続の堆積で、学校経営者から恨みをかうことになって、追放された。それ以後の、今日に至るまでの生のありようはどのように控えめに見ても生活者としても失格だろうし、長年の怠惰がたたって思考する力も衰えた。紙つぶてを投げつけるごとき駄文を書き散らすことで、自己満足のいくばくかを満たしていた感がある。
さて、今日の表題の意味することだが、2009年が過ぎ、その次の年に突入しても、駄文を書き続けることに変わりはないのだろうが、これまでの駄文の中に時折混じる自己憐憫は、自分で再読していても、単なるナルシシズムの変形に過ぎず、そこからは、どのような意味においても、過去に縛られた自己解放の道筋は見えては来ない。もっと言えば、自己憐憫に支配された精神では、新たな才、あるいは眠り続けていた才(もし、それらがあればの話だが)の発見と開拓など到底出来はしないだろう、と思う。2010年は、このような気づきに対して、真正面からぶつかっていけるだけの胆力をつけること。そして、そもそも不可能なのかも知れないが、自己の能力の開発に取り組むこと。これがいまの僕の課題である。これを読んでくださっている方は、いかにも頼りなげな観想を持たれるだろうが、僕にとっては、ここを乗り切らねばこの世界に生を授かった意味がないと、青臭いかも知れないが、かなり真面目に考えている。まずは己の裡なる自己憐憫を捨てきること。これが目下の課題である。僕の駄文に付き合ってくださるみなさんには、たいそう退屈な想いをさせてしまいかねないが、時代劇でいうところの真剣勝負である。そのような2010年にしたい。いや、そうしなければならないと心底感じているのである。