人は苦労しなければ成長しない、なんてたぶんどこかにウソがまじっているのだろう
人は苦労しなければ、人間的な成長は望めないなどとよく人は言う。真理だが、この格言的な言辞には註訳が必要である。ほんとうは理解ある両親に恵まれ、兄弟姉妹と仲良く育ち、友人にも恵まれて成長することに越したことはないはずである。実際、こういう環境に育った人に何人も会ったが、すべからくみんな人柄がよい。こういう人には、死するまで幸福であってほしい、と心から願う。この人と一緒にいると心安らぐと思える人の中には、恵まれた生育歴から育んだ素直で実直な人柄をもった人が多いのは、悔しいが事実なのである。現代のようなギスギスした人間関係があたりまえのようになってくると、たまには温かな人柄の人間と出会うことで、ウンザリとして、腐りかけた感情が、また蘇生してくるのが実感できる。こういう人と巡り合ったら、友人として自分を認めてもらうのが賢明というものである。
人生の辛苦を舐めてこそ、限りなき優しさを身につける人もいる。立派だと思う。このような人と出会えるのは幸運な人である。ぜひとも友情なり、愛情なりを育むべきだ。ただ、残念なことに、人生の辛さの中を生き抜いてくるうちに、優しさというよりは、頑迷な個性の強さを身につける人たちも少なからずいる。勿論、苦労が自己の人生の中で生きてくることもあるだろうし、強靭な精神力を勝ち取って、少々の困難にはビクともしない人格を身につけることにも意味はあるだろう。しかし、人間、あまりに苦痛に満ちた人生を送ると、自分は強くなれても、他者に対する思いやりや、心の痛みに対して、共感する土台を失ってしまいかねないのも悲しい事実なのである。人生を劇場にたとえるならば、惨めな端役ばかり演じていると、役者の実人生まで、個性のネジくれた人格になり得る可能性が大である。たまには日のあたる主役も演じてみなければ、役者というものの醍醐味が分からないのと同様に、実人生においても、端役に例えてみれば、生の辛苦の中に居続けると、自己主張ばかりが強くなったり、他人をひがんでみたりで、あまり自己の生を大らかに楽しめなくなってしまう。僕自身が体験済みのことだから、たぶん、過剰な一人よがりでなければ、かなりの普遍性を持ち得ている生の真実ではなかろうか。
いまだにあまり変わってはいない気がするが、青年の頃に、権力や権力に支配された社会体制に対して異常なほどの嫌悪感を抱き、理屈抜きの権威への反抗の論理を自己の裡に構築したのは、何も僕自身が、社会という存在に対して鋭敏な感性を持っていたのではなく、単に育ちが悪かったせいもある。あまりに稚拙な要因なので認めたくはないが、どうもこの要素を抜きにして自分を語ることは不可能だろうし、そもそも真実から逃避している気がしてならない。この頃、不可能なことだが、卑屈にならない程度に豊かに、平穏な青春期を送っていたら、いったい今ごろはどのようなことを考えながら生きているのだろうか?などと他愛もないことを考える。いよいよ老年に立ち到ったのだろうか?
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人は苦労しなければ、人間的な成長は望めないなどとよく人は言う。真理だが、この格言的な言辞には註訳が必要である。ほんとうは理解ある両親に恵まれ、兄弟姉妹と仲良く育ち、友人にも恵まれて成長することに越したことはないはずである。実際、こういう環境に育った人に何人も会ったが、すべからくみんな人柄がよい。こういう人には、死するまで幸福であってほしい、と心から願う。この人と一緒にいると心安らぐと思える人の中には、恵まれた生育歴から育んだ素直で実直な人柄をもった人が多いのは、悔しいが事実なのである。現代のようなギスギスした人間関係があたりまえのようになってくると、たまには温かな人柄の人間と出会うことで、ウンザリとして、腐りかけた感情が、また蘇生してくるのが実感できる。こういう人と巡り合ったら、友人として自分を認めてもらうのが賢明というものである。
人生の辛苦を舐めてこそ、限りなき優しさを身につける人もいる。立派だと思う。このような人と出会えるのは幸運な人である。ぜひとも友情なり、愛情なりを育むべきだ。ただ、残念なことに、人生の辛さの中を生き抜いてくるうちに、優しさというよりは、頑迷な個性の強さを身につける人たちも少なからずいる。勿論、苦労が自己の人生の中で生きてくることもあるだろうし、強靭な精神力を勝ち取って、少々の困難にはビクともしない人格を身につけることにも意味はあるだろう。しかし、人間、あまりに苦痛に満ちた人生を送ると、自分は強くなれても、他者に対する思いやりや、心の痛みに対して、共感する土台を失ってしまいかねないのも悲しい事実なのである。人生を劇場にたとえるならば、惨めな端役ばかり演じていると、役者の実人生まで、個性のネジくれた人格になり得る可能性が大である。たまには日のあたる主役も演じてみなければ、役者というものの醍醐味が分からないのと同様に、実人生においても、端役に例えてみれば、生の辛苦の中に居続けると、自己主張ばかりが強くなったり、他人をひがんでみたりで、あまり自己の生を大らかに楽しめなくなってしまう。僕自身が体験済みのことだから、たぶん、過剰な一人よがりでなければ、かなりの普遍性を持ち得ている生の真実ではなかろうか。
いまだにあまり変わってはいない気がするが、青年の頃に、権力や権力に支配された社会体制に対して異常なほどの嫌悪感を抱き、理屈抜きの権威への反抗の論理を自己の裡に構築したのは、何も僕自身が、社会という存在に対して鋭敏な感性を持っていたのではなく、単に育ちが悪かったせいもある。あまりに稚拙な要因なので認めたくはないが、どうもこの要素を抜きにして自分を語ることは不可能だろうし、そもそも真実から逃避している気がしてならない。この頃、不可能なことだが、卑屈にならない程度に豊かに、平穏な青春期を送っていたら、いったい今ごろはどのようなことを考えながら生きているのだろうか?などと他愛もないことを考える。いよいよ老年に立ち到ったのだろうか?
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃