○いまの僕なら、なにを語りかけるのだろうか?
英語教師を辞めてから10年数年が経過する。当然のことだが、英語教師は文部省検定済み教科書を使って英語を教える。ところが、この英語教科書たるや、出来の悪いことこの上なく、なんで自分はこんな馬鹿げたことを生徒に教えているのか、というやるせない気分から自由であったことはない。なにより、教科書の素材のお粗末さというか、非常識なほどに偏狭した編纂に失笑されられもした。その種の具体例は書き出せば、どこまでも書けるが、ここは二つだけ。一つは、イギリスの文化を紹介したつもりの素材だと思うが、イギリス文化の代表格として、マダム・タッソーの紹介文が長々と書き綴られている。なんでイギリス紹介の第1番目に、蝋人形館の紹介なのだろうという素朴な冷笑が裡から湧いてくる始末。それでも生徒に向かっては、教科書の難癖をつけている時間的余裕もなく、教えることになる。まあ、よいか、と云うのが僕の決まり文句。生徒さんには、いまにして思えば申し訳ない、のひと言に尽きる。二つ目は公園の紹介。イギリスのハイドパーク。公園の描写がウンザリとするほど長々と続く。最後の最後に、そりゃあ、これやろう、ハイドパークのテーマは、と思わせる描写。それが、スピーカ-ズ・コーナーの紹介。ここでは、誰でも自分の言いたいことを演説出来る。そして結構な聴衆が集まってくるというくだりである。西欧文化の背景に、演説、つまりは言葉に対する信頼が根強く在るという描写は、明治維新から大正デモクラシー以降、どこかに置き忘れてしまった感のある、日本人の演説に対する信頼感の喪失は、現代と云えども、日本の政治家たちの選挙演説を聞けば、日本にはすでに不在の概念だということは、明らかでもある。生徒さんに、スピーカ-ズ・コーナーの大切さを語り出したら、止めどなく自分のエセものの知識の大風呂敷が災いして、そのときの授業が台無しになった記憶がある。
たとえば、人生の終盤にさしかかったいまの僕が、スピーカ-ズ・コーナーで演説する機会に恵まれたとしたら、いったい、何を語り得るのだろうか?もはや、10代の頃の過激なアジテーションなどは自分の中で無化しているだろうから、そういうこととは別の、静かな演説を数少ない聴衆に向かって語るのかも知れない。あるいは、誰もいない虚空に向かって、か。僕が語るかも知れないことをシュミレートしてみようと思う。以下が、そうだ。
私が、今日、みなさんに語りかけたいのは、人間の絆というテーマについて、です。人は、みんな他者との繋がりを求めている。なのに、現実の世界では、私たちが、自らの内奥の声に素直になれない哀しさがあるのです。なぜ、私たちはそうなってしまうのでしょうか?唐突に聞こえるかも知れませんが、その理由は私たちの多くは、真の勇気が持てないからではないか、と思えるのです。そう、それを生きる勇気と言い直してもよい、と思います。勇気がないから、心を開けないのです。閉じた心は、他者を受け入れることなどできはしません。誤解しないでください。私が言いたいのは、表層的な人間関係のことではありません。そんなものは、絆という概念と相容れないとは言いませんが、似て非なるものだと言っても間違いはないでしょう。
人と人とが濃密に関わり合うこと。そして、その関係性の中から、新たに生じる価値観、同時に、過去にしばられた自分を一旦壊し、再生する力。それを生成と呼んでも言い過ぎではないでしょう。そうです、人を再構築させ得る力、それが人間の絆の持つ最も大切な役割ではないでしょうか。私には、人間にとって、最も大切な生きる力の一つ、それが人間の絆だと確信して疑いません。
かつて、日本の青年たちには、「連帯を求めて孤立を怖れず」というスローガンのものに、大きな連帯の環が出来たことがあります。私は、いまでも、このスローガンに込められたある種のロマンティシズムに深く共感します。しかし、同時にその間違いにも気づいています。その誤謬とは、連帯を求めることにあまりに政治的に偏狭な価値を持ちこんだことです。人間にはいろいろな価値観、政治意識の違いがあってしかるべきなのに、このスローガンの「連帯」には、思想を異にする人間に対する強烈な排除の概念が込められています。非常にアイロニカルなことですが、そもそも、このスローガンにおける「連帯」は、孤立することを前提とした、むしろ人間の絆を断ち切る要素が濃厚だったと、いまにして思います。「連帯を求めて孤立を怖れず」というスローガンは、このような排除の思想ではなく、より濃密な人間の絆を求めるための、精神的な構えとしての課題として、「孤立を怖れず」というならば、それは意味があるのです。私は、21世紀に通用するスローガンとして、人間の絆を構築する思想として、「連帯を求めて孤立を怖れず」という過去に埋もれた大切な概念を掘り起こしてみたいと切に願っています。そうであれば、私たち日本人も含めて、あなた方、イギリス人も、連帯どころか、多くの力なき民の犠牲の上に長年に渡って富を独占した時期があります。これは連帯ではなく、支配です。これからの世界は、人が他者をいかなる関係性においても、支配する時代ではありません。私たちが目標とすべきは、あくまで、人間の絆を構築するための連帯への希求とその実践です。これを私の今日のスピーチとします。ご清聴ありがとうございました。
というようなことを、僕は拙いサバイバル英語で語るのではなかろうか。たぶん、僕の英語力では、僕の演説の趣旨の多くは伝わらないにしても、僕の考え方の断片なりとも、聴衆の耳に届くことまでは諦めることなく語るだろう。いつか、実際にやってみたいと思っている。僕の数少ない小さな願望の一つである。
推薦図書:「ゆたかな社会」ガルブレイス著。岩波同時代ライブラリー。いまさら、ゆたかな社会はないだろう、としらけるほどの生き難い社会になってしまいましたが、この書は、アメリカの経済学者としてのガルブレイスが、マルクス主義に対する正当な評価も含めつつ、現代の行く末を展望しているという意味において、貴重な書ではないか、と思います。推薦の書としては、有意味な書だと確信しています。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
英語教師を辞めてから10年数年が経過する。当然のことだが、英語教師は文部省検定済み教科書を使って英語を教える。ところが、この英語教科書たるや、出来の悪いことこの上なく、なんで自分はこんな馬鹿げたことを生徒に教えているのか、というやるせない気分から自由であったことはない。なにより、教科書の素材のお粗末さというか、非常識なほどに偏狭した編纂に失笑されられもした。その種の具体例は書き出せば、どこまでも書けるが、ここは二つだけ。一つは、イギリスの文化を紹介したつもりの素材だと思うが、イギリス文化の代表格として、マダム・タッソーの紹介文が長々と書き綴られている。なんでイギリス紹介の第1番目に、蝋人形館の紹介なのだろうという素朴な冷笑が裡から湧いてくる始末。それでも生徒に向かっては、教科書の難癖をつけている時間的余裕もなく、教えることになる。まあ、よいか、と云うのが僕の決まり文句。生徒さんには、いまにして思えば申し訳ない、のひと言に尽きる。二つ目は公園の紹介。イギリスのハイドパーク。公園の描写がウンザリとするほど長々と続く。最後の最後に、そりゃあ、これやろう、ハイドパークのテーマは、と思わせる描写。それが、スピーカ-ズ・コーナーの紹介。ここでは、誰でも自分の言いたいことを演説出来る。そして結構な聴衆が集まってくるというくだりである。西欧文化の背景に、演説、つまりは言葉に対する信頼が根強く在るという描写は、明治維新から大正デモクラシー以降、どこかに置き忘れてしまった感のある、日本人の演説に対する信頼感の喪失は、現代と云えども、日本の政治家たちの選挙演説を聞けば、日本にはすでに不在の概念だということは、明らかでもある。生徒さんに、スピーカ-ズ・コーナーの大切さを語り出したら、止めどなく自分のエセものの知識の大風呂敷が災いして、そのときの授業が台無しになった記憶がある。
たとえば、人生の終盤にさしかかったいまの僕が、スピーカ-ズ・コーナーで演説する機会に恵まれたとしたら、いったい、何を語り得るのだろうか?もはや、10代の頃の過激なアジテーションなどは自分の中で無化しているだろうから、そういうこととは別の、静かな演説を数少ない聴衆に向かって語るのかも知れない。あるいは、誰もいない虚空に向かって、か。僕が語るかも知れないことをシュミレートしてみようと思う。以下が、そうだ。
私が、今日、みなさんに語りかけたいのは、人間の絆というテーマについて、です。人は、みんな他者との繋がりを求めている。なのに、現実の世界では、私たちが、自らの内奥の声に素直になれない哀しさがあるのです。なぜ、私たちはそうなってしまうのでしょうか?唐突に聞こえるかも知れませんが、その理由は私たちの多くは、真の勇気が持てないからではないか、と思えるのです。そう、それを生きる勇気と言い直してもよい、と思います。勇気がないから、心を開けないのです。閉じた心は、他者を受け入れることなどできはしません。誤解しないでください。私が言いたいのは、表層的な人間関係のことではありません。そんなものは、絆という概念と相容れないとは言いませんが、似て非なるものだと言っても間違いはないでしょう。
人と人とが濃密に関わり合うこと。そして、その関係性の中から、新たに生じる価値観、同時に、過去にしばられた自分を一旦壊し、再生する力。それを生成と呼んでも言い過ぎではないでしょう。そうです、人を再構築させ得る力、それが人間の絆の持つ最も大切な役割ではないでしょうか。私には、人間にとって、最も大切な生きる力の一つ、それが人間の絆だと確信して疑いません。
かつて、日本の青年たちには、「連帯を求めて孤立を怖れず」というスローガンのものに、大きな連帯の環が出来たことがあります。私は、いまでも、このスローガンに込められたある種のロマンティシズムに深く共感します。しかし、同時にその間違いにも気づいています。その誤謬とは、連帯を求めることにあまりに政治的に偏狭な価値を持ちこんだことです。人間にはいろいろな価値観、政治意識の違いがあってしかるべきなのに、このスローガンの「連帯」には、思想を異にする人間に対する強烈な排除の概念が込められています。非常にアイロニカルなことですが、そもそも、このスローガンにおける「連帯」は、孤立することを前提とした、むしろ人間の絆を断ち切る要素が濃厚だったと、いまにして思います。「連帯を求めて孤立を怖れず」というスローガンは、このような排除の思想ではなく、より濃密な人間の絆を求めるための、精神的な構えとしての課題として、「孤立を怖れず」というならば、それは意味があるのです。私は、21世紀に通用するスローガンとして、人間の絆を構築する思想として、「連帯を求めて孤立を怖れず」という過去に埋もれた大切な概念を掘り起こしてみたいと切に願っています。そうであれば、私たち日本人も含めて、あなた方、イギリス人も、連帯どころか、多くの力なき民の犠牲の上に長年に渡って富を独占した時期があります。これは連帯ではなく、支配です。これからの世界は、人が他者をいかなる関係性においても、支配する時代ではありません。私たちが目標とすべきは、あくまで、人間の絆を構築するための連帯への希求とその実践です。これを私の今日のスピーチとします。ご清聴ありがとうございました。
というようなことを、僕は拙いサバイバル英語で語るのではなかろうか。たぶん、僕の英語力では、僕の演説の趣旨の多くは伝わらないにしても、僕の考え方の断片なりとも、聴衆の耳に届くことまでは諦めることなく語るだろう。いつか、実際にやってみたいと思っている。僕の数少ない小さな願望の一つである。
推薦図書:「ゆたかな社会」ガルブレイス著。岩波同時代ライブラリー。いまさら、ゆたかな社会はないだろう、としらけるほどの生き難い社会になってしまいましたが、この書は、アメリカの経済学者としてのガルブレイスが、マルクス主義に対する正当な評価も含めつつ、現代の行く末を展望しているという意味において、貴重な書ではないか、と思います。推薦の書としては、有意味な書だと確信しています。ぜひ、どうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃