ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○断絶と飛躍あるいは飛翔

2010-08-07 23:46:11 | 観想
○断絶と飛躍あるいは飛翔

人は己れの過去に捉われる存在である。自分の過去がいかに輝かしいものであれ、あるいは、思い出したくもない事実の連続体であれ、現在の自己の存在理由は、どのような意味でも過去と繋がっている。歌というジャンルはそれが形而下的であれ、人生の真実を言い当てていることもあるが、たとえば、過去との関わりという意味において、すぐに思い出されるのは、河島英五のヒット曲である。僕の記憶に間違いがなければ、「酒と涙と男と女」かな?何となく情緒的にこの歌を歌っていると、誤魔化されてしまうのだが、やはり「忘れてしまいたい過去や、どうしようもない寂しさに包まれたとき、男は(あるいは女は)酒を呑むのでしょうー」とくる。その後は、酒を呑み、酒に呑まれて、男(あるいは女は)静かに眠るのでしょうーと締めくくるのだから、この論理のとおりに物事を解釈すると、要するに、つらい過去の思い出に打ちひしがれたときは、酒を呑み倒して、一瞬の忘却の彼方へと自分を運び去るしかないことになる。酒が過去の忘却の対象にならない人は、クスリであったり、ギャンブルであったり、とりとめもない異性関係の中で、現実のつらさをいっとき忘れるしかない。さて、それでは、酒の酔いが醒めたり、クスリの効用が切れたり、性的な関係性に飽きた異性との別れがあったりしたら、いったい、こういう人たちにとって過去の重さはどのように覆いかぶさってくるのであろうか?

たぶん、上記のごとき、形而下的な次元で、直面している過去との対峙に耐えられなくなった場合、このような人々は同じようなことを繰り返すしか、生き延びる手段がないのである。人は己れの過去と無縁ではあり得ない。しかし、その過去と折り合いをつけて、過去の忘れたきことさえ、思想的な次元にまで引き上げて総括すると、形而下的なつらさや哀しさなどは、過去と断絶した時点から未来への展望が開けてくるはずなのだ。僕が、断絶と言い、飛翔というのは、まさに、このような視野から己れの過去を形而上的に整理し尽くして、その上で未来を見渡したとき、そこには、かつては考えてもいなかった種類の、未来への展望が視えてくる、ということである。無論、展望が視え、展望の実現を目指して自己の関わっている領域で、勇気を持って自己の限界値まで見極める意思を持てば、確実に己れの力量以上の成果が上がると確信する。それを飛翔と定義してもよい。

翻って考えれば、人の生き方などは、いくら他者の客観的な視点から、妥当なことを示唆してみたところで、当事者が、いつまでも形而下的な過去へのこだわりの中に身を潜めているのなら、何を言ったところで、生きた言葉もその人の頭の上を虚しく通り過ぎるだけである。また間違った思い入れを持ちすぎると、過去の連綿とした出来事の影響下から抜け出せない人に、強烈な力を投げかける危険がある。そもそも、過去に縛られている人々なのである。換言すれば、当事者の思想の域は、あくまで川島英五並みの情緒的で形而下的な次元にいる人々なのである。思い入れの強過ぎる人と、形而下的な次元に留まっている人々との関係性が、いっとき救済の姿として立ち現れようと、それは体のよい支配―被支配の関係性でしかない。こういう精神構造の中に組み込まれた男あるいは女は、当然、支配者の言いなりにならざるを得ない。タチの悪い支配者とは、己れの支配欲を救済だと錯誤して憚らないことである。あるいは、救済というかたちを意識した詐欺師同然なのである。支配される方も無罪ではないが、しかし、その責任は圧倒的に、支配したがる人間の側にある。

人は、過去のどのような体験があるにしても、形而上的な断絶を成し遂げることで、忘却の彼方に追いやるだけの出来事も、将来への展望ともなり、また、自覚している以上の成果を上げるという意味で、それを飛翔と定義することが出来る。あらためて書き留めておくが、形而上的断絶とは、深い洞察による過去の総括を成し遂げるということと同義語である。ここにこそ、未来への可能性が広がる契機が在るのだ。みなさん、そのことに自覚的になりませんか?



推薦図書:「そんな日の雨傘に」ヴィルヘルム・ゲナツィ―ノ著。白水社。自分の人生に「存在許可」を出した覚えのない男の、居場所を捜す果てしないモノローグ小説です。主人公の男のモノローグに、生の真実をみる想いがするかも知れません。お薦めの書です。ぜひどうぞ。


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