ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○ラストダンスは私に。

2010-08-18 09:34:51 | 音楽
○ラストダンスは私に。

越路吹雪というシャンソン歌手のことを知っている人々は、僕以上の世代だろう。シャンソンそのものを知らない人もいることだろう。しかし、僕の10代の頃の日本は、いまのように、英語、英語などと言っている時代ではなかったのである。むしろ、当時の日本の世の趨勢はフランス文化の影響下にあったと記憶する。社会科学の分野で理論武装する。それは僕にとっての必須の仕事。極左の連中たちが、プチブルと言って憎悪の対象にして憚らなかった、フランス文学を僕は好んで読んだ。ボードレールの、あの暗い憂愁に満ちた詩が大好きだった。堀口大学訳のそれを読んだが、どうしてもフランス語で朗読したき欲動を抑えきれず、安くはなかった授業料を捻出して、芦屋の語学学校で、フランスネィティブのマダムからフランス語の基礎から教わった。僕は10代の人間としては、奇妙な趣味の持ち主で、それはたぶん親父の影響もあるのだろうが、アルゼンチンタンゴや、フランスのシャンソンのレコードをとりわけ好んで聴いた。特にシャンソンへの傾注は度を超えていて、学校の勉強などは、どうでもよかったので、僕は、フランス・ネィティブの歌手くずれから、シャンソンを安い授業料(値切ったのである)で習っていたのである。「シャンゼリゼ通り」はうろ覚えだが、いまでもフランス語で歌えるし、ブチ切れだが、何かのメロディは、フランス語で頭の中を駆け巡る。

そういうときに、越路吹雪という存在が視野に入ってきたのである。彼女は、僕の記憶違いでなければ、宝塚上がりで、シャンソン歌手になった。彼女の謳うシャンソンは、日本語だったが、シャンソンがこれほど、日本語と馴染む歌だと認識したのは、越路吹雪との遭遇がきっかけである。謳い方はむしろ男性的ですらあったが、何とも言葉にしづらいほどの情感に溢れ、謳うことの歓びを識った。当時、同じ左翼だが、敵視の対象だった共産党の青年組織だった民青の連中が好んだ「歌声喫茶」(当時は労働歌などを中心とした歌を思い切り謳える喫茶店が結構流行ったのである)のレパートリーには絶対にないのが、シャンソンだったろう。無論僕は歌声喫茶など軽蔑していたし、そういうおチャラけた雰囲気が大嫌いだったので、実際は、どのような雰囲気だったのかは定かではない。

たくさんのレパートリーの中で、僕が一番好きだったのは、「ラストダンスは私に」。二番目は「愛の賛歌」だ。「愛の賛歌」はたくさんの歌手が謳っているが、この二つは絶対に越路吹雪でなければならない、と僕は固く信じている。いまは堕落して、カラオケの持ち歌?としてしか歌わないが、それを聞かされるカラオケ仲間さん、ほんとに迷惑千万。ごめん。

越路吹雪の歌声にのって聴こえてくる「ラストダンスは私に」は、あくまで切ない。歌詞から判断すると女の哀しさが表出されているが、僕は、それを人間の切ない感情の表現として受け取っている。愛の切なさに男も女もない。愛を感じた異性に対して、ジェラシーも感じるし、どうしようもない心理的な距離感に苦しんでいても、どこまでも、愛した対象者に向かって、切ない愛を贈り続ける人間の心情は、崇高である。自己愛が中心になりがちの人間に対して、あくまで自己愛以上に愛する人が大切だと思える心境は、すばらしい、と僕はいまでも信じて疑わない。もし、この時代が、人間の愛の意味を喪失しがちな世界だとするなら、死にかけの僕であれ、愛する人を自分の存在以上に考える生き方を大切にしたいと思う。もはや、僕のごとき年寄りの人間には異性に愛を語る資格などないのかもしれないが、それならば、人間の普遍的な愛のかたちとして、愛を語ろうと思う。「愛の賛歌」を高らかに謳うもよし、切なくどこまでも相手を想いながら「ラストダンスは私に」を謳うもよし、である。愛など信じないと言って肩肘張って生きることの虚しさを感じるくらいならば、ドンキ・ホーテのように、まぼろしを求めて世界を彷徨うことの方がどれほど生きた甲斐があることか、と思う。死するまで、この気持ちは忘れまい。心底、そう想う。

推薦CD:いくつかのアルバムが出ているが、僕のお薦めは、「エッセンシャル・越路吹雪」である。どうぞ、人生に疲れたときは、シャンソンを。

文学ノートぼくはかつてここにいた   
長野安晃