○幻像としての家族
何度か家族崩壊の憂き目に遭った人間として、家族という存在を見返すと、自分で構築した家族関係の瓦解のことよりも、自分が生まれ育った家族関係というものの存在の大きさを考えずにはいられない。たぶん、それが成り立ちのその瞬間から崩壊している存在だとしても、それは自分の想像力の中で、理想化された幻想として脳髄の中に居座るだろうから、これほどありがた迷惑なものはないと、僕は思う。翻って考えれば、人が生きていくとは、社会という他者の集合体の中で、他者との関係性を切りむすびながら、一個の人間として屹立していかねばならないのである。それがたとえ、大いなる幻想であれ、ありがた迷惑な存在であれ、自分が幼き頃から確かに、そこに存在し、そこから現在へと繋がる時間の中から、自分の、いま、ここが成立しているのだと思い切らねば、生きてゆく勇気などなかなか湧いては来ないからこそ、やっかいなのである。
そうは言っても、人間は古い殻を体から無理矢理にでも引き剥がすように自立しなければいけない存在でもある。もし、人間性という個性的な要素の中に、自分でも反吐が出そうなものが混じっているとするなら、それの原因は、生まれ育った家族関係の、質的な問題が濃厚に影響しているのである。僕が敢えて「幻像としての家族」というテーマで書きはじめたのは、概ね、自分が生まれ育った家族というものが、家族構成がどうであれ、子どもに対する愛のあり方と云う視点でものを見たとき、語るに値しないほどに壊れていることが殆どではなかろうか、と感じるからである。例外的によく出来た人間というのは、確かにいるから、幸運な人はそういう親子関係を育むことが出来るのかも知れない。しかし、それとても、陥穽はあるわけで、愛が過剰になれば、子どもはなかなか家族という殻を脱ぎ捨てられはしない。おとなとして、自立したかに見えて、心はいつまでも居心地のよかった子どものままである、という現象が起こるのは決してめずらしいことではない。そうすると、自分が築いたはずの夫婦関係とか、家族関係に悪しき影響を与えるのも必然である。より人間的であるために、モンテーニュのごとき中庸の精神が働けばよいのだろうが、どちらかと云うと、人間として生き抜くためには、むしろ、ニーチェ主義の方が顔を出す。それは少々ヒステリカルな叫びに似た、あの「人間的な、あまりに人間的な」という思想的随想の中にその実像があるように思えて仕方がない。
人間社会が、人間の頭脳的明晰さを生かし切れず、いつまでも稚拙で、進歩なき、いやむしろ退歩の現象の方が目立つ歴史を刻んでいるのを見るにつけ、人は総じて、その笑顔や前向きの精神性の裏面に、不幸な不全感を抱えながら生きているからではないのか、という慨嘆さえ自分の裡から漏れ出てくるのである。その根っ子を手繰れば、たぶん間違いなく、幼き頃に受けた愛の過剰さか、あるいは、愛の欠如という現象が、人のその後の人生に大きな、長い影を落としているからに他ならないからだろう。その意味において、幸福な人間とはいかなるものか、という本質的な考察があってもよさそうだが、僕の知っている限りにおいては、思想家の中で、この問題に真っ向から取り組んだ人はいない。アランの「幸福論」は、あくまで、幸福であるための思想的技術論だし、たとえば、心理学のジャンルで親子関係に対する鋭い警告を発している学者もいないではないが、それらの分析が、人を不幸から幸福な状況にまで転化させるだけの思想的な力があるとは感じられない。現象的分析の中の気づきだけでは、人はいつかは気づきそのものが重苦しくなるので、その書を遠ざけることになる。
21世紀と云う前世紀には想像だにしなかった不幸な時代を迎えて、この不幸に立ち向かえるだけの精神的エネルギーが欠如したままでは、人は確実に病む。そしてその病巣は、自分が創り上げた家族という密接な関係性を媒介にして、拡大していくばかりではないか。いま、僕たちに必要なことは、少なくとも自分が、いま、ここに存立し、これからの人生を豊かにしようという決意があるのならば、過去の「幻像としての家族」関係から意図的に抜け出す心的回路を持つことである。もしも不幸な過去であって、それを断ち切らねばならないとしても、その行為に対して、いかなる空虚感も、空漠感も抱く必要などないではないか。自己の再構築への強い意思と生成への期待感に信頼を置きさえすれば、明日の光は視えてくるのである。生きている限り、前進あるのみである。そうではありませんか?
推薦図書:「ハッピーエンドにさよならを」歌野昌午著。角川書店。小説の企みに満ちた、アンチ・ハッピーエンドストーリー集です。この書を敢えてお薦めするのは、アンチ・ハッピネスを描こうとする作者の心性の中にこそ、本質的なハッピネスへの希求があるように感じられるからです。大いなる裏読みをしてください。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
何度か家族崩壊の憂き目に遭った人間として、家族という存在を見返すと、自分で構築した家族関係の瓦解のことよりも、自分が生まれ育った家族関係というものの存在の大きさを考えずにはいられない。たぶん、それが成り立ちのその瞬間から崩壊している存在だとしても、それは自分の想像力の中で、理想化された幻想として脳髄の中に居座るだろうから、これほどありがた迷惑なものはないと、僕は思う。翻って考えれば、人が生きていくとは、社会という他者の集合体の中で、他者との関係性を切りむすびながら、一個の人間として屹立していかねばならないのである。それがたとえ、大いなる幻想であれ、ありがた迷惑な存在であれ、自分が幼き頃から確かに、そこに存在し、そこから現在へと繋がる時間の中から、自分の、いま、ここが成立しているのだと思い切らねば、生きてゆく勇気などなかなか湧いては来ないからこそ、やっかいなのである。
そうは言っても、人間は古い殻を体から無理矢理にでも引き剥がすように自立しなければいけない存在でもある。もし、人間性という個性的な要素の中に、自分でも反吐が出そうなものが混じっているとするなら、それの原因は、生まれ育った家族関係の、質的な問題が濃厚に影響しているのである。僕が敢えて「幻像としての家族」というテーマで書きはじめたのは、概ね、自分が生まれ育った家族というものが、家族構成がどうであれ、子どもに対する愛のあり方と云う視点でものを見たとき、語るに値しないほどに壊れていることが殆どではなかろうか、と感じるからである。例外的によく出来た人間というのは、確かにいるから、幸運な人はそういう親子関係を育むことが出来るのかも知れない。しかし、それとても、陥穽はあるわけで、愛が過剰になれば、子どもはなかなか家族という殻を脱ぎ捨てられはしない。おとなとして、自立したかに見えて、心はいつまでも居心地のよかった子どものままである、という現象が起こるのは決してめずらしいことではない。そうすると、自分が築いたはずの夫婦関係とか、家族関係に悪しき影響を与えるのも必然である。より人間的であるために、モンテーニュのごとき中庸の精神が働けばよいのだろうが、どちらかと云うと、人間として生き抜くためには、むしろ、ニーチェ主義の方が顔を出す。それは少々ヒステリカルな叫びに似た、あの「人間的な、あまりに人間的な」という思想的随想の中にその実像があるように思えて仕方がない。
人間社会が、人間の頭脳的明晰さを生かし切れず、いつまでも稚拙で、進歩なき、いやむしろ退歩の現象の方が目立つ歴史を刻んでいるのを見るにつけ、人は総じて、その笑顔や前向きの精神性の裏面に、不幸な不全感を抱えながら生きているからではないのか、という慨嘆さえ自分の裡から漏れ出てくるのである。その根っ子を手繰れば、たぶん間違いなく、幼き頃に受けた愛の過剰さか、あるいは、愛の欠如という現象が、人のその後の人生に大きな、長い影を落としているからに他ならないからだろう。その意味において、幸福な人間とはいかなるものか、という本質的な考察があってもよさそうだが、僕の知っている限りにおいては、思想家の中で、この問題に真っ向から取り組んだ人はいない。アランの「幸福論」は、あくまで、幸福であるための思想的技術論だし、たとえば、心理学のジャンルで親子関係に対する鋭い警告を発している学者もいないではないが、それらの分析が、人を不幸から幸福な状況にまで転化させるだけの思想的な力があるとは感じられない。現象的分析の中の気づきだけでは、人はいつかは気づきそのものが重苦しくなるので、その書を遠ざけることになる。
21世紀と云う前世紀には想像だにしなかった不幸な時代を迎えて、この不幸に立ち向かえるだけの精神的エネルギーが欠如したままでは、人は確実に病む。そしてその病巣は、自分が創り上げた家族という密接な関係性を媒介にして、拡大していくばかりではないか。いま、僕たちに必要なことは、少なくとも自分が、いま、ここに存立し、これからの人生を豊かにしようという決意があるのならば、過去の「幻像としての家族」関係から意図的に抜け出す心的回路を持つことである。もしも不幸な過去であって、それを断ち切らねばならないとしても、その行為に対して、いかなる空虚感も、空漠感も抱く必要などないではないか。自己の再構築への強い意思と生成への期待感に信頼を置きさえすれば、明日の光は視えてくるのである。生きている限り、前進あるのみである。そうではありませんか?
推薦図書:「ハッピーエンドにさよならを」歌野昌午著。角川書店。小説の企みに満ちた、アンチ・ハッピーエンドストーリー集です。この書を敢えてお薦めするのは、アンチ・ハッピネスを描こうとする作者の心性の中にこそ、本質的なハッピネスへの希求があるように感じられるからです。大いなる裏読みをしてください。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃