ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○星つむぎの歌

2010-08-31 00:46:42 | Weblog
○星つむぎの歌
 倉本聡の終戦記念番組の出来はひどかった、のひと言に尽きるが、倉本の真価は、やはりル・サンチマンを脚本にするのではなくて、人間の優しさを描く作家なのだろう、と思う。そういう才能に恵まれていることを忘れずにいてほしいものである。平原綾香のCDに、「ノクターン」という曲が入っているので、それを聴いていて、倉本聡脚本、緒方拳の最期の作品としての「花のガーデン」というテレビドラマを思い出した。「ノクターン」はドラマの中で繰り返し流れるバック・ミュ―ジックだった。麻酔医役の中井貴一が末期ガンを宣告され、父親と自分の別れた二人の子どもに会いに、北海道にもどってくる物語だ。平原綾香も中井のたくさんの愛人の一人として、登場する。この番組が報道される前から、緒方その人がガンのために余命幾ばくもない瞬間、瞬間を縫うようにして、中井の父親役としての、頑固で、かつ優しい、田舎の町医者を演じ切ることは知っていた。実際、見ごたえのあるドラマだった。例によって、涙が止まらなかった。中井貴一も一皮むけたなあ、と感心させられる演技力をいかんなく披露したし、それよりもなによりも、緒方拳という役者魂が、この物語演じる過程で、深々と僕の胸に沁み入った。この作品は、同時に緒方拳という昭和の大俳優の最期を飾るにふさわしい作品として、語り継がれるだろうと思う。緒方は最期の最期まで役者として、人間として立派だったと思う。
 中井貴一演じる麻酔医は、東京で医師としての自己の才能を余すところなく発揮し、何もかもが自分の思い通りになる生活を営んでいた。当然、女性にもてた。そういう役どころの男が、末期ガンを宣告されて、最期の時を迎える場所として選んだのは、棄てたはずの故郷の、知的障害を持つ息子が管理する、たくさんの花々が咲き乱れるガーデンだったし、当の息子と成長した娘、そして勘当された父親役の緒方拳との和解のために、東京でのたくさんの人間関係も、女性関係も棄てて、ひとり川向こうから実家のガーデンを眺める毎日を選びとったのである。人間は独りで生まれ、独りで死んでいくにしても、独りたり得る環境を選びとる権利はある、と言いたげな物語の展開であった。散り散りになった家族との和解と中井演じる麻酔医の死とが裏腹に進行していく。換言すれば、再会と別離というテーマが、この物語のコア―だったと思う。人は、どのように装ったとしても、独りぼっちで死んでいくことの無意味さ、不毛さを、家族との再会を通じて、快復し得るのだということを、倉本は主張したかったのかも知れない。
 話を変える。平原綾香という歌手は、すばらしい歌を謳う。「ノクターン」という難しい歌をあれほど日本人らしくなく、謳える歌手はこの人以外にはいないのではないか、という思いで、このCDを手にした。このアルバムで、もう一曲、胸を打ったのが、「星つむぎの歌」だった。財津和夫作曲。歌詞は星つむぎの詩人たちという幾人もの合作らしい。ともあれ、人が人として、生きる証とはいったい何なのかをこの歌で謳い切った感のある単純なメロディーと簡明な歌詞とが、訳もなく胸を打つ。「ノクターン」が緒方拳の最期のドラマの色合いを飾っていたとするなら、「花のガーデン」という人の繋がりの尊さをテーマにした脚本に呼応するように、平原綾香の、透明感があるようで、その透明感にはうっすらとした幕がかかっているかのごとき甘い歌声が、「星つむぎの歌」の<僕らは愛さずには生きていけない こわれる心に 口ずさんで 同じ時代と ひとつの空に 奇跡のかけらで つむいだ歌を>という切り口から、<僕らは一人では生きていけない 泣きたくなったら思い出して 嵐の消えない願いのような 星の光でつむいだ歌を>に至る歌詞を奏でるとき、抗えないほどに虚飾の一切を剥ぎとった生の原型としての、愛と、愛という概念が切りむすばざるを得ない、人間の絆の不可避な存在理由を僕たちに突きつける。これはあくまで、歓びをともなった驚きでもある。人間、生きていることも悪くはない。そう思わせる力がある。緒方拳は逝ったが、平原の歌を逆に辿るようにして、僕の裡なる緒方拳は死することなく、脳髄に刻み込まれていることを認識させられる。実に気分のよい抗い難さである。

推薦CD:「Path of Independence by HIRAHARA AYAKA」です。ぜひ、どうぞ。

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