ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○郷愁という概念

2010-08-03 23:56:42 | 観想
○郷愁という概念

人間の存在形体の本質を知っていれば、現在がいかに幸福であれ、あるいはまた、不幸のどん底にまで落ちぶれていようが、人間にとっての、いま、ここ、は、どう控えめに見ても、過去から現在に至るまでの連続体ということに異論を差し挟む人はいないだろう。人はだからこそ、大まかに言うと、二つのタイプがあるということになる。一つは、現在をどのように生きていようと、いつまでも過去にしがみついている人々。それは実体として、あくまで観念的でしかないが、塵あくたのごとき古めかしい観念の虜のままに、いま、ここ、を生き切れていない人たちである。この人たちにとっての過去とは、現在を生き抜くための足場になってはいず、過去とは常にマイナスの磁場へと誘い込むごときの、つまらないこだわりとしての意味しかない。これを郷愁という概念で語れば、過去の現実を正しく総括出来ず、いや、出来ないからこそ、過去を必要以上に美化する傾向があるという意味合いの、括弧つきの郷愁である。こういう人たちは大概不幸な顔つきをしているものだ。

過去へ遡及することの意味は、括弧つきの郷愁という観点からの欲求である場合、直面している現実が耐えがたいがために、甘い幻想を過去の出来事の端々に求めて自分を慰めようとする心性である。言うまでもなく、己れの過去にも、その時々の現実があり、耐えがたきことがあったはずだが、それらの要素だけを意図的に忘却の彼方へと押しやるのである。その後に残るのは、何の変哲もない事柄の羅列に過ぎないが、そこに、慰めなりとも求めようとする人々にとっては、無意味な事象の羅列そのものが、水墨画のごとき清澄な精神の極みへと誘ってくれるという錯誤に陥るのは必然である。しかし、この時点から、壁高き未来への展望などが開けてくるはずがないのは、火を見るより明らかだろう。

僕が、郷愁と云う概念性を持ち出したのは、郷愁という言葉の響きそのものが持つ、過去への誘いという観念性とは逆に、それはあくまで未来へと開らかれた、新たな可能性を孕んだ力学のモーメントを如何にして個の再構築のための力に変容出来るのか、という野心的な心的試みゆえである。人間が、既述したように過去から現在に至る総体的な存在であるという概念規定が妥当であるとするなら、やはり、人間の総体は、総体そのものとして、未来への展望に満ち溢れたエネルギーを有しているはずである。人が、人生の途上で幾ばくかの困難に直面したとき、意識的・無意識的に、郷愁の念に駆られるのである。その過去が光り輝いていようと、あるいは、唾棄すべき猥雑なものであろうと、過去の個々の出来事を記憶の底から引き揚げて、それらを総体的に掌握した上で、自分の、いま、ここを創造的なものとして、思想的に編み直さねば、いかなる意味においても、未来への足がかりは視えては来ないのである。換言すれば、郷愁とは、この意味において過去に立ちかえるときに限って、存立有効なものと云えるのである。また、郷愁は、人間が生きていく上において、過去に置き忘れてきた価値意識を、いま、ここに再生するために存在しなければならない。僕は、郷愁という概念を、このように考える。



推薦図書:「共通感覚論」岩波現代文庫。中村雄二郎著。今日は拙論の中でも整理し尽くせぬことを書きましたので、論理矛盾を起しているかも知れません。反省の意味を込めて、しっかりとした思想の書を推薦します。この書によって、考えることの楽しさを満喫してくだされば幸いです。



文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃