○開き直ろう、居直ろう、っていうのはほんとうは難しいことだと思う。
僕から見ると、人生の難局とは到底言い難い場面であれ、眼前の克服するべき課題の前で立ちすくんでいる人に対してかけ得る言葉というと、そんなに落ち込むことではない、あなた/君なら軽く乗り越えられる問題だろうと言うしかない。無論、僕がここで書こうとしているのは、それほどは多くはない友人たちに対する言葉である。
開き直るとか、居直るというのは、その言葉の意味を考えると、当人が抱えている問題が、仕事上のものであれ、プライベートなそれであれ、これまでの世間知という殻を脱ぎ捨てて、丸裸で世界と対峙するということなのであろう。人間と云うのは、どのように控えめに見てもそれほど雄々しくはない生き方で何とか生き抜いてきたにしろ、生き抜いたこと、そのこと自体が生きる確信になっているらしい。しかし、その生き抜いた結果の、生の確信とは<世間知の蓄積>と云うことが殆どだから、耐性はあくまで脆いのである。何故なら、その耐性とは、実人生において、これまで生起した困難を乗り越えてきたという経験論としての生活哲学から類推できることに限られているからである。無論人はそれがたとえ世間知であれ、異なる局面に応用する能力はあるに決まっているのだが、残念なことに、世間知という経験則の応用力は、当人が考えているより遥かに幅が狭い。そうであれば、自身にとって、降りかかってくる問題が大きければ大きいほど、自己の問題解決能力の欠如に慨嘆しつつ、ますます狭隘な世界観の中に逼塞していくばかりなのである。ここに生の幅をぐっと広げるだけのエネルギーなど、どこからも湧いてくるはずがないのである。
開き直りや、居直りの思想とは、極限すれば、自己の実人生における価値意識を意識的にひっくり返す精神的作業である。知性主義や教養主義というものは、元来、己れの保守主義の上に構築されたある種の、知的洗練だから、自己の世界観そのものの変容とは無関係である。したがって、その意味では、必ずしも知性や教養そのものが、自己変革の主因とはなり得ない。それらは控えめに云っても、自己の価値観を変え得る有効なフリンジとしての役割しか果たさないので、僕自身は、知性や教養と云うものをそれほど信用しているわけではない。無論、僕に知性や教養がそれほどあるとは到底思えぬが、知性主義や教養という要素が、必ずしも自己の人生を豊かにしてくれるものではないと思っているし、それらの要素で自分を装ったり、自己防衛の武器にしたりしないようにというのが、自戒の言葉にはなり得ているとは思う。
この世界には、世界を生き抜くための知性・教養を探し求め、それらを基盤にして、自己実現を図らんとするような筋金入りの教養人もいるが、そういう人は一方で、ジャンルは人様々であるにせよ、必ず生における実践家でもある。控えめに云っても、自己の世界観を異なる角度から見ることが出来る人である。社会的ないかなる類の実践も、この種の精神の鍛錬なき、単なるディレッタンティズム(教養主義と云う意味ではなく、この場合は、教養に対する単なる好事家と云う意味である)に陥らないことが前提である。社会が病み、人が病んでいるのは、無価値な知性・教養が、跳梁跋扈している時代である。
推薦図書:「恥辱」J・M・クッツェー著。早川書房。文庫です。プロットは、ディレッタントたる大学教授が、教え子の女子学生のセクハラの告発を受けて、大学を解雇される、というものですが、主人公の初老の教授の深い教養が、ときとして、自己の人生を狭隘にし、自己呪縛の原因になっているのを読みとるにつけ、いったい、知性とはなんなのか、という深い疑問が湧いてきます。とは言え、この物語はおもしろく読めます。ノーベル文学賞作家の作品です。この書はブッカー書も獲得していますから、さらに深く読むと、生の核心に触れることが出来るのかも知れません。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃
僕から見ると、人生の難局とは到底言い難い場面であれ、眼前の克服するべき課題の前で立ちすくんでいる人に対してかけ得る言葉というと、そんなに落ち込むことではない、あなた/君なら軽く乗り越えられる問題だろうと言うしかない。無論、僕がここで書こうとしているのは、それほどは多くはない友人たちに対する言葉である。
開き直るとか、居直るというのは、その言葉の意味を考えると、当人が抱えている問題が、仕事上のものであれ、プライベートなそれであれ、これまでの世間知という殻を脱ぎ捨てて、丸裸で世界と対峙するということなのであろう。人間と云うのは、どのように控えめに見てもそれほど雄々しくはない生き方で何とか生き抜いてきたにしろ、生き抜いたこと、そのこと自体が生きる確信になっているらしい。しかし、その生き抜いた結果の、生の確信とは<世間知の蓄積>と云うことが殆どだから、耐性はあくまで脆いのである。何故なら、その耐性とは、実人生において、これまで生起した困難を乗り越えてきたという経験論としての生活哲学から類推できることに限られているからである。無論人はそれがたとえ世間知であれ、異なる局面に応用する能力はあるに決まっているのだが、残念なことに、世間知という経験則の応用力は、当人が考えているより遥かに幅が狭い。そうであれば、自身にとって、降りかかってくる問題が大きければ大きいほど、自己の問題解決能力の欠如に慨嘆しつつ、ますます狭隘な世界観の中に逼塞していくばかりなのである。ここに生の幅をぐっと広げるだけのエネルギーなど、どこからも湧いてくるはずがないのである。
開き直りや、居直りの思想とは、極限すれば、自己の実人生における価値意識を意識的にひっくり返す精神的作業である。知性主義や教養主義というものは、元来、己れの保守主義の上に構築されたある種の、知的洗練だから、自己の世界観そのものの変容とは無関係である。したがって、その意味では、必ずしも知性や教養そのものが、自己変革の主因とはなり得ない。それらは控えめに云っても、自己の価値観を変え得る有効なフリンジとしての役割しか果たさないので、僕自身は、知性や教養と云うものをそれほど信用しているわけではない。無論、僕に知性や教養がそれほどあるとは到底思えぬが、知性主義や教養という要素が、必ずしも自己の人生を豊かにしてくれるものではないと思っているし、それらの要素で自分を装ったり、自己防衛の武器にしたりしないようにというのが、自戒の言葉にはなり得ているとは思う。
この世界には、世界を生き抜くための知性・教養を探し求め、それらを基盤にして、自己実現を図らんとするような筋金入りの教養人もいるが、そういう人は一方で、ジャンルは人様々であるにせよ、必ず生における実践家でもある。控えめに云っても、自己の世界観を異なる角度から見ることが出来る人である。社会的ないかなる類の実践も、この種の精神の鍛錬なき、単なるディレッタンティズム(教養主義と云う意味ではなく、この場合は、教養に対する単なる好事家と云う意味である)に陥らないことが前提である。社会が病み、人が病んでいるのは、無価値な知性・教養が、跳梁跋扈している時代である。
推薦図書:「恥辱」J・M・クッツェー著。早川書房。文庫です。プロットは、ディレッタントたる大学教授が、教え子の女子学生のセクハラの告発を受けて、大学を解雇される、というものですが、主人公の初老の教授の深い教養が、ときとして、自己の人生を狭隘にし、自己呪縛の原因になっているのを読みとるにつけ、いったい、知性とはなんなのか、という深い疑問が湧いてきます。とは言え、この物語はおもしろく読めます。ノーベル文学賞作家の作品です。この書はブッカー書も獲得していますから、さらに深く読むと、生の核心に触れることが出来るのかも知れません。
文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃