ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○これまで大きな考え違いをしていたことがある。

2010-08-17 01:15:15 | 観想
○これまで大きな考え違いをしていたことがある。

僕は、どうも金銭に対する並々ならぬ嫌悪感があった。金があれば、必要なものも整うし、現実の形而下的な生活は、とりあえずは不自由なく過ぎ去っていく。しかし、金銭は一方で、浅薄であれども、人の評価と深い関わりがある。異常な金に対する執着心さえ(たとえそれがあったとしても)なければ、あるいは、隠しおおす装いさえ出来れば、金銭のあるなしは、その人の存在価値を高めもするのである。しかし、そうは言っても人の評価に関わる、金という媒体に対する蔑視と憎悪が自分の中で醸成されたのには、やはりそれなりの訳がある。

僕は子どもの頃から、自分の母親の労働観とそれに纏わる金銭感覚に対して、憤りに近い憎悪を感じ続けていたように思う。母親の実家は、特に富裕層ではなかったが、実父が肉体労働者を使う側の人間として、かなりの成功をおさめた人だったのである。僕には甘い祖父だったし、学のない自分を恥じていたにも関わらず、息子たち4人を、高校へも進学させず、家業を継がせていたが、孫である僕には手のひらを返したように教育熱心な男になった。ありがたかったのは、祖父は決して自分の知らない領域のことに対して知ったかぶりはせず、よく出来る(明らかに彼の幻想なのだが)孫の僕を褒めちぎることで、とりこぼした自分の生の補てんをしていた感がある。僕には惜しみなく金を使った。子どもにも、ちょっとこれはどうか?と思わせるほどに。


しかし、母親だけは当時のあまり優秀とも言えない女学校に通わせていたにも関わらず、4人の息子と彼女は、同じような卑しい金銭に対する執着心を抱いたと思う。それが僕にはどうにもウンザリとさせられる現実だったのである。ひと言でいえば、小汚い感性だったと僕は思う。親父が祖父が亡くなってから、祖母の許可をなぜだか得て、母親の小さくはない実家を抵当に入れ、大きな借財の返済に回したことで、母親は、常に父に対して、金、金、金、金の返済、と言う毎日になった。借りたら返すのはあたりまえだが、金に関する母親の金切り声(こういう不快な声はやはり金に纏わることなのか、金属音を指しているのかは分からぬが、事実はともあれ僕には絶対に前者にしか思えない)が聞こえる度に、僕の裡で、母親像は崩れ去り、母親は単なる女になり、さらに、醜い、金に小汚い女になり果てた。人には、甚だ耳触りの悪い言葉が、母親に対する僕の裡なる評価になった。・・・このクソ女!思春期の母親に対する観想である。自分がまともに育つはずがないな。僕もいい加減屈折していたかと思うが、父には、こんなクソ女から早く逃れて、もっとええ女と逃げればいい、と心密かに思っていた。当然のことだろうが、父もご多分にもれず、若い女とかけ落ちしたのである。なるべくしてなった結末だったと、いまでも思っている。


大学時代は、泥水を呑まざるを得ないほどの極貧だったが、それでも極貧から脱して、金のことなど考えなくてもいい生活、金のあるなしに煩わされずに済む生活が始まってからも、やはり、事ある度に、僕は金に対する執着が生じるならば、むしろ惜しみなく金を棄てるように使った。離婚に直面しても、たとえ小さいにせよ、家も土地も、当時の妻が蓄財していた少なくはない額の金を全て放棄した。根底には、金に拘る女ごときには、全てをくれてやる、という意固地な思想が在ったと思う。長生きするつもりもないので、老後の蓄えがこれだけ必要だという保険会社の宣伝にも興味はないし、特に金のかかる医療などに頼るつもりもない。もうダメだと感じたら、野たれ死ぬか、はたまた自死するか。覚悟は出来ている。


自分の覚悟とは別に、金に対する考え方は少し変化してはいる。そもそも、人間とは、その繋がりにおいて、何らかの媒体を歴史上、ずっと必要としてきたのである。これは生活の糧という次元を超えて在る思想である。金という媒体がない時代は、物のやりとりによって、他者に対する好意を示しただろう。金という交換媒体が出来たことによって、好意の証は金を与える行為として定着した感がある。そもそも金自体には、いかなる思想的な色合いもついてはいない。それはむしろ無色透明なものだ。それに、さまざまな色がつくのは、金を持つ人間の精神の次元の高低によるのである。いま、生活用語で云えることは、持てる金は惜しみなく使えばよい。分かりもしない老後とやらの蓄えと称して、やたらと蓄財する必要がどこにある?札束は残された遺族の心を卑しくさせるだけだ。生きているうちに使い切ればそれでよいではないか。それで親密な他者が喜ぶならば、惜しみなく与えればよいではないか。あとのことは、あるがまま。それでよし、だ。


推薦図書:「ゆらゆら橋から」池永陽著。集英社文庫。こんなつまらないことを読まされたのですから、せめて推薦図書なりとも、人生における切なさ(これはある意味生の真実です)を描いた連作集でもどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃