ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○「陽水の快楽」に関する雑記

2011-02-01 15:53:49 | Weblog
○「陽水の快楽」に関する雑記
 歌手の井上陽水という人は不可思議な人だとつくづく思う。シンガーソングライターという言葉はすでに死語になっているのかも知れないが、陽水は自分で作詞作曲をやり、歌う、という種類の歌手である。若い人も、彼の歌をカラオケなんかで歌うことがあると思うが、井上陽水が出現してきたのは、いまの若者たちが生まれるずっと前、僕が高校1年生のころだから、時代背景としては、70年安保闘争のうねりの中に現れ出た人だ。この時代は、学生運動にのめり込んでいった若者も、そうでない人も含めて、自分が置かれた時代性に対する何らかのメッセージソングとしての、フォークソングに思い入れが強かったはずなのである。それがいっときの虚妄であれ、時代はまさに動かんとする胎動を感じさせるに十分な時代の中に、僕たちの世代が好むと好まざるに関わらず、ほうり込まれていた証左なのだと思う。
 しかし、メッセージソングのジャンルとはまったく違う曲をひっさげて登場してきたのが、井上陽水である。彼のどこまでも透き通るように出る歌声と、魅惑的な声質は、どういうわけか僕の心をわし掴みにしたのである。メロディーは、それなりの深刻な要素を持っている。たぶん、その頃の時代性と背反しなかった。しかし、問題は彼が高くて甘い声で絞り出す歌詞なのである。政治的、社会的メッセージ性などカケラもない。それどころか、彼が書いた歌詞は、論理性もないし、どれもこれも意味論として捉えるならば、ちぐはぐ極まりないのである。少し紹介する。たとえば、メッセージ性があるようでないもの。「都会では自殺する若者が増えている、今朝来た新聞に書いていた、行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃあ、君の街に行かなくちゃあ、傘がない~」とか、「~ある日、踏切の向こうに君がいて、遮断機が降りて、振りむいた君は、もうオトナの顔をしてるだろう~」また、あるいは、なんだか知らないけれど、「小春おばさん~」と無意味に絶叫するものまであるわけである。
 井上陽水という人は、いくら時代的切迫感の中においても、本来は人間の、何気ない日常的なるものへの傾斜という、心的状況の隙間に入り込んできた天才的な歌手なのではなかろうか。陽水がいくら魅惑的な声色をし、心浮き立たせるメロディーを提示し続けたところで、それだけのものならば、陽水に匹敵する歌手は他にもいる。しかし、現れては消え、消えては現れるこの種の歌手たちのようには、陽水は立ち消えることなく、デビューから今日に至るまでずっと第一線で活躍し続けてきたのである。そうであれば、特別ななにものかを彼の中に見出さずには、彼の存在の説明がつかないことになるだろう。
 竹田清嗣という哲学者は、ご存じのように日本におけるフッサール研究の第一人者である。フッサールの現象学の大物に突き当たるまで、彼は世界の現代思想の研究者という称号を与えるのがふさわしい日本の哲学者だと思う。哲学者として思考の深化を遂げながらも、自身の在日2世としての存在理由についても突き詰めた論考を書き綴っている。その竹田が、「陽水の快楽」(河出文庫)の作者なのである。この書自体がよい論考だとは思わないが、竹田が陽水の曲相を分析すればするほど、陽水が出現した時代における、その存在の異化性について語るべく、陽水賛美の書を書き綴らざるを得なかったとしか僕には思えない。
 時代性や、時代の背景とともにもてはやされる思想とは、一線を画すというか、時代背景から、屹立して存在する歌手として、竹田は井上陽水の存在理由を語っているように思えてならない。かといって、陽水は哲学者のような姿かたちをしているわけではない。むしろ、語り口はなよなよした単なるおっさんである。トレードマークの真っ黒なサングラスをしていなければ、お話にもならないようなシマラナイ顔つきなのである。だからこそいいのかも知れない。それが、井上陽水の魅力の抜きがたい魅力なのかも知れない、と妙に納得している昨今なのである。ちなみに陽水の、意味のなさない何曲かは、僕自身のi-Podに入っている。井上陽水とは、どこまでもおかしな存在である。いまも、時代を超えた売れっ子歌手だ。どうなっているのだろうか。

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