ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○拡散と統合に関する雑感

2011-02-02 10:54:36 | 哲学
○拡散と統合に関する雑感


まずは、人の内面に関する考察から。人の思考のあり方は、あるものごとについて考えたとすると、まずは、いくつかの異なった発想が頭の中を分散しながら、そのいくつかの分散した考えが、不統一に脳髄の中を駆けめぐる。みんなそうなのである。事の初めから考え方がまとまっていることなどまずないだろう。そして、このようなプロセスを、日本語では、逡巡する、というのである。そもそも人の思考とは、このようにしながら、あるひとつの考え方に収斂していくのである。人間の知恵とは、眼前に乗り越えるべき壁があるとすると、いろいろな試行錯誤、これを思考の分散段階とするなら、この分散の過程で、さまざまな発想が思い浮かぶ。そして、発想を統一出来るときに、人は目の前の大きく高い壁を乗り越えることが出来るのである。これを思想の統合の成果と云って差し支えないだろう。


これをフランス現代哲学用語で云うなら、思想の再構築ということになるだろうが、フランスの哲学は、ある意味、もっと過激であり、思想を再構築する際に既成の思想、価値観を一度ぶち壊す。再構築というのは、あくまで破壊の後に行われる思想的行為なのであり、お役御免の哲学などは、いったん崩壊させて、新たな思想を再構築する、というのである。無論、このプロセスにおいて起こり得るのは、かつては、修正主義として批判の対象になったものだが、マルクス思想と比較するとフランスからはじまった現代思想の思想の確立に関する方法論は、屁理屈づきなフランス人の感性によれば、修正主義もあり、ということになるから、フランス現代哲学は過激に見えて、その実、案外懐が深いのかも知れない。

さて、日常的な次元における、逡巡する、という概念についてだが、僕の考えでは、人間、多いに逡巡すればよろしいのであって、行ったり来たり、行きつもどりつ、というのは、人の考え方として当然のなりゆきだろう、と思うのである。その意味では、日本の仏教思想は、人の思想的な逡巡を、迷いという概念で否定してしまうので、ここにはウソがあるだろう、と思う。迷いを超越して、無我の境地に入るというが、これでは日常性からの離脱という行為がついてまわるのは当然である。だからこそ、仏教思想の中には、日常を棄て、修行と称して、迷いを払拭するために狭隘な仏門という檻の中に自らを閉じ込める禅的修業がある。修行と云えば聞こえはいいが、日常生活を極端なストイシズムの中に封じ込め、非日常性の中に安住するのであるから、そこで得た高潔?な思想は、狭苦しい檻の中でしか通用しない代物でしかないのは必然なのである。そもそも人間的なあらゆる欲動を抑止した生活を修行というような逆立ちした逃避には、日常性の中で生起する難題を解決する回路がそもそもないのである。僕の発想では、座禅的修行などは、日常の中で行き詰った感情を、ほんのいっとき非日常の中に置いて、カタルシスを味あわせるがごときの、ゴマカシにしか思えない。禅的ストイシズムの修行の只中にいる雲水さんが、夏のクソ暑きときに、クーラー、ガンガンに効いた喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいる姿は滑稽だが、ある意味、正直でよろしかろう、とも思う。ついでに言わせてもらうと、禅宗以外の宗派が、人間の苦悩と対峙出来るとは到底思えない。だって、彼らは、世襲制の中で胡坐をかいているし、税金は免除されているし、銭金にはとんでもない執着を持っている人たちが多いので、まったく信用出来ない。その他の新興宗教も集金マシーンのごとくに、人の内面的な弱みに付け込んでは、銭金をくすね取るわけで、こういうのは、信用出来ないという域から逸脱した、殆ど詐欺的集団だと僕は思っているのである。


この世界には、絶対者や超越者などいない。頼れるのは自分だけだ。また、自分で鍛えた思想だけである。その思想の彷徨の果てに繋がった人間の力の集合体としての人間相互の力である。その意味で、人は、自己の思想を鍛える場合、思考の拡散を怖れてはならないし、むしろ、拡散から統合への道のりを歩いてほしいのである。その結果のあとにしか、ほんものの人間の関係性などは生まれないと考えてしかるべきだ。人間の関係性の構築にも同じ種の拡散と統合の理念はついてまわる。言わずもがなだが。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃