ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○人間、生きる意味を求めるのは当然なんだけど、少なくとも、いまの僕のアプローチは、ね。

2011-02-04 22:59:47 | Weblog
○人間、生きる意味を求めるのは当然なんだけど、少なくとも、いまの僕のアプローチは、ね。
 歓ぶべきことなのか、そうでないのかの、客観的な判断なんか出来はしないけれど、この世界に生まれ落ちたときから、いかに僕の頭の出来がよろしくないとはいえ、それなりに考える、という行為に慣れ親しんで生きてきたわけだから、どう控えめに見ても、自分とはなんぞや?自分の生きた軌跡に意味があるのか、そうでないのか?という自問が習い症になった感がある。
 とは言え、僕のブログを読んでくださる方の中には、ブログに書いたことのすべてが、私小説のごとくに、僕自身の言動の結末が、現実、ありのままであると考えているのだろうか、と思うこともある。なるほど、僕の書いてきた事象に関わる問題は、勿論事実に基づいてはいるが、しかし、事実そのものではない。現実に自分の身に降りかかった出来事の集積から、なにほどか、現在の自己を規定するべき課題を敢えて抽出して書いてはいる。が、それらの過去の事象に現在という時限から、あるいは現在の言語感覚から、過去の事象を一般化しているわけで、当然のことながら、書いたものには、エセら事という意味ではなく、物語性というファクターが絡みついているのは必然なので、そういう観点で読んでもらえると、これからも書きやすきこと、この上ない。なにより、別に僕はブログの読者に対して、自己の過去のありさまを告白しているわけではなくて、物語性を差し挟むことによって、自分が関わった個別の事象に、ある種の一般化、もっと大袈裟に言うと、普遍化というファクターを付加しているつもりなのであるから。僕のHPには、文芸評論集を一冊出したことになっているし、出版社が倒産したこともあり、本のアイコンをクリックするとアマゾンにジャンプするようになってはいるが、もはや、それは古本でしか手に入らない。なんの意味かは分からないが、古本の値段は、7000円を超えている。おかしな現象だ。古本の市場価格がどのように決まるのかまったく分からないが、何か希少価値でもあると見込んだ結果だろうか?自分で云うのもなんだが、内容はたいしたものではない。真面目には書いているけれど、それ以上でもそれ以下でもない。
 ごく一握りの才能に恵まれた人々ならば、それぞれの活躍の場における結果それ自体が、広く他者の記憶にとどまるような幸運に恵まれてもいるが、大方の平凡な人々(無論断るまでもないことだが、僕も含めて)にとっては、相当に意識的にならなければ、自分の生の軌跡など、塵あくたのように、風に吹き飛ばされてそれっきり、だ。人間の生などは、そういうものだし、それこそが人生というものだ、というような悟りの境地に立ち至った人は、またそれもよし。しかし、僕のような人間に至っては、到底そうはいかないのであるから、死に至るまであくせくと自分の生の痕跡を残さんとヒ―ヒ―言っているのではなかろうか。勿論、その種のドタバタ劇など、誰の記憶にもとどまらないことを承知の上の、ひとり芝居であることの自覚を持った抗いであるにしても。
 歴史の、いかなるジャンルにも名を残せない人間のひとりとして、なし得ることとは何か?自己満足でもなく、自己卑下でもない、自己の生の痕跡の残し方とは、いったいどうあるべきなのか?あるいは、そもそも生の痕跡を残すなどということこそ、盲想なのだろうか?知らぜざる人間は、黙して語らず(僕の書くことなどは、沈黙と同義語であるから)、この世界から立ち去るべきか?と、そんなことを自問していると、この種の自問こそが、なにやらとても不毛にみえて、その実、知らぜざる人間になし得る最大の実践なのかも知れないと思えないこともない。勿論、この日本が激して、変化の激流がまた再び到来したとき、自分が生きているのか、もう死して無に帰しているのかは知らないが、生きているとするならば、言葉どおりの実践を、かたちにするのだ、という想いは棄てぬままに残りの生を生き抜いてみせる。そういう覚悟は、裡にあるとは思うのである。今日の観想して書き遺す。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム     長野安晃