○人生、なにもかもが、無価値に思えるときだってありますよ。それは生きるという行為に織り込み済みのことだと、僕は思うな。
生きるという行為は、思いのほか、たいへんなことで、人生、躓きの連続と言っても過言ではない。逆に、自分の人生に躓きなどない、と言い切るような人を僕は信用しない。あるいは、人生、楽しくて仕方がない、などとほざく人間も信用しない。
そもそも人間というのは、自分のなすべきことを発見するために生きているような存在で、逆の視点から見ると、自分のなすべきことがなかなか見つからないのが、人生とも言えるのである。従って、生きる行為についてまわる苦悩とは、人間がどう生きるべきか、を考えるときに、明るき未来像も、その逆に暗黒の、希望なき将来像も同時に頭を駆け巡るのである。その意味においては、人間存在とは、考える葦などとパスカルは言い放ったが、考える、という行為には、二つの相反する要素、つまりは、自己を生かすベクトルと自己を破壊しようとするベクトルという要素が織り込み済みなのである。だからこそ、人は、窮地に立ち至ったときに、絶望するし、絶望ゆえに、己れを破壊すべく不幸な選択肢を選びとることもあるわけである。
だから、人生に、ゆるぎない安泰の生き方などあり得ないわけで、生の安寧ということで、すぐに想起できるのは、経済的・社会的な安定感だろうが、しかし、これとても、大病を患っては、備わった経済的な背景を活用も出来ないし、社会的地位など、体調がついていかねば、それを維持することさえ出来かねる。こういう次元においては、人間は平等な生のリスクを背負っているということになるが、経済的困窮であるとか、社会的地位に恵まれないという現象的な意味における不平等は、生まれ育ちを自らが選びとってこの世に生を授かるのではないから、もしも極貧の家庭に、あるいは、家庭的不幸の只中に生まれ落ちたら、またあるいは、難治の病気を持ってこの世に生を受けたならば、それは、天に向かって呪詛するしかないのだろう。その他にも数え挙げたらキリがないほどに、呪詛するべきことは多々あれど、人間、自分という存在を人生のどこかの時点で、恨みつらみがあろうと、折り合いをつけねばならないのも否定できない事実。やっぱり、人生とは、そもそも不平等に出来ているものなのかしらん、というのが偽らざる心境だが、それなら、それで自分になし得ることを精一杯考えて、実践するしかないね。そういうことがすべて面倒になったら、死にどきかも知れない。
生きること、そのものに価値がある、なんて言い出したら、むしろ、世の中の不平等や矛盾を見逃すことになりかねないし、どのような艱難辛苦に遭ってもそれに耐えるがごときの、もの言わぬ羊の群れになり下がる。そんなことはまっぴらごめん。僕が無神論者を標榜するのは、この世界にまん延しているあらゆる宗教的真理が、人間的な不平等感や、矛盾を超えた絶対者に帰依することで、自分が背負っている不幸の数々から目を逸らせる要素を多分に含み込んでいるからである。
また、もっと嫌悪することは、宗教が政治を繰ることである。これは人類の太古から行われてきた宗教と政治(祭り事)との合体であるが、現代におけるも、この思考回路は、人間の裡からどうも抜けきらぬらしいのである。日本においても、政教分離が出来ていない政党すら存在するし、すでに国会議員を有している新興宗教もあれば、ここに乗り出そうとしているのもある。こういう事態は人間の未来において、凌駕されてしかるべき現象だと、僕は強く思う。イスラム原理主義による政治支配においても、同じ種の人間の原初的で、未成熟な要素を感じるので、やはり、どこの国においても、政治と宗教は切り離されてしかるべき存在だと思う。
さて、どう考えても、人間は不平等ですよ。不幸平極まりない。それが人間社会。とはいえ、それを絶対者なるもので、諦念の対象にしないことだ、とも思う。どこまで行っても、不平等、不幸平な世の中であっても、それでも生き抜く勇気と覚悟。これが、人間にとっての不可欠なファクターだと僕は思うけれど。どうでしょうか?
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
生きるという行為は、思いのほか、たいへんなことで、人生、躓きの連続と言っても過言ではない。逆に、自分の人生に躓きなどない、と言い切るような人を僕は信用しない。あるいは、人生、楽しくて仕方がない、などとほざく人間も信用しない。
そもそも人間というのは、自分のなすべきことを発見するために生きているような存在で、逆の視点から見ると、自分のなすべきことがなかなか見つからないのが、人生とも言えるのである。従って、生きる行為についてまわる苦悩とは、人間がどう生きるべきか、を考えるときに、明るき未来像も、その逆に暗黒の、希望なき将来像も同時に頭を駆け巡るのである。その意味においては、人間存在とは、考える葦などとパスカルは言い放ったが、考える、という行為には、二つの相反する要素、つまりは、自己を生かすベクトルと自己を破壊しようとするベクトルという要素が織り込み済みなのである。だからこそ、人は、窮地に立ち至ったときに、絶望するし、絶望ゆえに、己れを破壊すべく不幸な選択肢を選びとることもあるわけである。
だから、人生に、ゆるぎない安泰の生き方などあり得ないわけで、生の安寧ということで、すぐに想起できるのは、経済的・社会的な安定感だろうが、しかし、これとても、大病を患っては、備わった経済的な背景を活用も出来ないし、社会的地位など、体調がついていかねば、それを維持することさえ出来かねる。こういう次元においては、人間は平等な生のリスクを背負っているということになるが、経済的困窮であるとか、社会的地位に恵まれないという現象的な意味における不平等は、生まれ育ちを自らが選びとってこの世に生を授かるのではないから、もしも極貧の家庭に、あるいは、家庭的不幸の只中に生まれ落ちたら、またあるいは、難治の病気を持ってこの世に生を受けたならば、それは、天に向かって呪詛するしかないのだろう。その他にも数え挙げたらキリがないほどに、呪詛するべきことは多々あれど、人間、自分という存在を人生のどこかの時点で、恨みつらみがあろうと、折り合いをつけねばならないのも否定できない事実。やっぱり、人生とは、そもそも不平等に出来ているものなのかしらん、というのが偽らざる心境だが、それなら、それで自分になし得ることを精一杯考えて、実践するしかないね。そういうことがすべて面倒になったら、死にどきかも知れない。
生きること、そのものに価値がある、なんて言い出したら、むしろ、世の中の不平等や矛盾を見逃すことになりかねないし、どのような艱難辛苦に遭ってもそれに耐えるがごときの、もの言わぬ羊の群れになり下がる。そんなことはまっぴらごめん。僕が無神論者を標榜するのは、この世界にまん延しているあらゆる宗教的真理が、人間的な不平等感や、矛盾を超えた絶対者に帰依することで、自分が背負っている不幸の数々から目を逸らせる要素を多分に含み込んでいるからである。
また、もっと嫌悪することは、宗教が政治を繰ることである。これは人類の太古から行われてきた宗教と政治(祭り事)との合体であるが、現代におけるも、この思考回路は、人間の裡からどうも抜けきらぬらしいのである。日本においても、政教分離が出来ていない政党すら存在するし、すでに国会議員を有している新興宗教もあれば、ここに乗り出そうとしているのもある。こういう事態は人間の未来において、凌駕されてしかるべき現象だと、僕は強く思う。イスラム原理主義による政治支配においても、同じ種の人間の原初的で、未成熟な要素を感じるので、やはり、どこの国においても、政治と宗教は切り離されてしかるべき存在だと思う。
さて、どう考えても、人間は不平等ですよ。不幸平極まりない。それが人間社会。とはいえ、それを絶対者なるもので、諦念の対象にしないことだ、とも思う。どこまで行っても、不平等、不幸平な世の中であっても、それでも生き抜く勇気と覚悟。これが、人間にとっての不可欠なファクターだと僕は思うけれど。どうでしょうか?
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃