○自己愛過剰の心性に関して想うこと。
人間、誰だって自分が大切である。また、そうでなければ生きてはいけないのだろう。だから自己愛といっても、その概念性自体を全否定しているわけではない。そもそも自己愛のない人間など存在しないわけだから。問題は、その内実である。それは空疎であれば、生きる意欲を何かのちょっとした拍子に喪失してしまって、自ら命を絶つということにもなりかねないし、また、過剰であれば、自分本位の考え方に陥り、他者の言葉や真意が理解できないわけで、究極的には抜きがたい孤独という寒風に晒されることになる。心的状況のあり方としては、まず、こんなところだろう。
ずっと昔、浅田彰という天才的な哲学者が「逃走論」という著作を引っさげて登場した。浅田は、その著書の中で、フランス現代哲学の紹介をやったわけだが、それは単なるフランス現代哲学のアンソロジーではなかった。時代は、マルクスやヘーゲルが思索し構築した絶対的な思想のコアーというものを、フランス哲学者たちの考え方のプロットを通じて、徹底的に相対化するのが、浅田の目論見だったと僕は思っている。<逃走>とはこれまでの絶対主義的哲学からの意識的な離脱宣言であり、相対主義の理論化であった。
フランス現代哲学の底流にあるのは、ニーチェがキリスト教的絶対権威に対して、宗教が人間に与える絶対主義への傾斜及び服従に対して、ツァラトストラの叫びを通じて、また、「人間的な、あまりに人間的な」という随想的哲学的考察などを駆使して、絶対主義を否定した思考の原型である。浅田は、「逃走論」の中で論じたフランス哲学者たちよりもずっと相対主義的な思考が強かったと思う。彼の影響を受けてか、日本の思想界は、しばらくの間、相対主義のオン・パレード状態だったことを覚えておられる方も多いと思う。
しかし、浅田の目論見は、実のところは日常生活にもその影響を与え、下卑た相対主義を正当化させた。<なんでもあり>なら、他者の<なんでもあり>を積極的に認知する能力でもあるからまだマシだが、その動きは自己愛過多の方向へ流れた。敷衍すると、自己愛を正当化するために他者の自己愛をないがしろにするとか、もっと極端になると、他者の存在理由の否定を促した感がある。イジメという行為は、特に学校社会に特有なものではなく、おとなの社会全般に広がった。つまりは、イジメという行為は、下品な相対主義が行き着く果ての姿と規定出来るのではないか、と僕は思うのである。
とは言え、僕は思想の相対化をまったくダメだと言っているのではない。宗教的権威による絶対者や、数少ない天才たちが思索の果てに構築した絶対主義的な哲学的論考に対して、人は意識している以上に屈しやすい存在なのである。圧倒的に有力な存在に自分を委ねたいという心性は、人間の自己愛偏重の思想と矛盾しない。それは次元を下げれば、依存という心性を生み出し、次元を高めれば、思想への盲従を意味する。その意味で、思想の相対化のための思想が必要なのである。絶対主義に対する依存や、盲従から人を解き放ち、<自由>の概念を取り戻すためのエッセンス。それが、相対主義の効用であり、存在理由である、と僕は思う。哲学が日常から遊離したものである、という単純な考え方は、まったく当を得ていないだろう。自己愛過剰の心理が生み出されて、その功罪が取り沙汰されている本質を僕たちは見抜いておかねばならないし、そういう時期に来ていると信じて疑わないが、みなさんはどうでしょうか?
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人間、誰だって自分が大切である。また、そうでなければ生きてはいけないのだろう。だから自己愛といっても、その概念性自体を全否定しているわけではない。そもそも自己愛のない人間など存在しないわけだから。問題は、その内実である。それは空疎であれば、生きる意欲を何かのちょっとした拍子に喪失してしまって、自ら命を絶つということにもなりかねないし、また、過剰であれば、自分本位の考え方に陥り、他者の言葉や真意が理解できないわけで、究極的には抜きがたい孤独という寒風に晒されることになる。心的状況のあり方としては、まず、こんなところだろう。
ずっと昔、浅田彰という天才的な哲学者が「逃走論」という著作を引っさげて登場した。浅田は、その著書の中で、フランス現代哲学の紹介をやったわけだが、それは単なるフランス現代哲学のアンソロジーではなかった。時代は、マルクスやヘーゲルが思索し構築した絶対的な思想のコアーというものを、フランス哲学者たちの考え方のプロットを通じて、徹底的に相対化するのが、浅田の目論見だったと僕は思っている。<逃走>とはこれまでの絶対主義的哲学からの意識的な離脱宣言であり、相対主義の理論化であった。
フランス現代哲学の底流にあるのは、ニーチェがキリスト教的絶対権威に対して、宗教が人間に与える絶対主義への傾斜及び服従に対して、ツァラトストラの叫びを通じて、また、「人間的な、あまりに人間的な」という随想的哲学的考察などを駆使して、絶対主義を否定した思考の原型である。浅田は、「逃走論」の中で論じたフランス哲学者たちよりもずっと相対主義的な思考が強かったと思う。彼の影響を受けてか、日本の思想界は、しばらくの間、相対主義のオン・パレード状態だったことを覚えておられる方も多いと思う。
しかし、浅田の目論見は、実のところは日常生活にもその影響を与え、下卑た相対主義を正当化させた。<なんでもあり>なら、他者の<なんでもあり>を積極的に認知する能力でもあるからまだマシだが、その動きは自己愛過多の方向へ流れた。敷衍すると、自己愛を正当化するために他者の自己愛をないがしろにするとか、もっと極端になると、他者の存在理由の否定を促した感がある。イジメという行為は、特に学校社会に特有なものではなく、おとなの社会全般に広がった。つまりは、イジメという行為は、下品な相対主義が行き着く果ての姿と規定出来るのではないか、と僕は思うのである。
とは言え、僕は思想の相対化をまったくダメだと言っているのではない。宗教的権威による絶対者や、数少ない天才たちが思索の果てに構築した絶対主義的な哲学的論考に対して、人は意識している以上に屈しやすい存在なのである。圧倒的に有力な存在に自分を委ねたいという心性は、人間の自己愛偏重の思想と矛盾しない。それは次元を下げれば、依存という心性を生み出し、次元を高めれば、思想への盲従を意味する。その意味で、思想の相対化のための思想が必要なのである。絶対主義に対する依存や、盲従から人を解き放ち、<自由>の概念を取り戻すためのエッセンス。それが、相対主義の効用であり、存在理由である、と僕は思う。哲学が日常から遊離したものである、という単純な考え方は、まったく当を得ていないだろう。自己愛過剰の心理が生み出されて、その功罪が取り沙汰されている本質を僕たちは見抜いておかねばならないし、そういう時期に来ていると信じて疑わないが、みなさんはどうでしょうか?
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃