ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○記号としての永田洋子

2011-02-08 13:35:47 | Weblog
○記号としての永田洋子
 かつての連合赤軍のリーダーだった森田恒夫を操り、実質的な実権を握っていたと思われる永田洋子が、先日死刑囚のままに拘置所で死した。脳腫瘍による多臓器不全が死因だったそうな。森田と永田は、セクト内の掟を破ったという理由で、セクトの仲間を、「総括」と云う名のリンチで、次々に抹殺していった。彼らが逮捕された後の報道によって、リンチというものの質的な次元の低さが明らかになった。というのも、「総括」は決して思想上の分裂を意味しなかったのである。また思想闘争の勝敗の結果ですらなかった。それらは、殆ど怨嗟という感情的な次元の、死刑宣告だったと記憶する。また、死刑執行に携わる仲間も、「総括」されるかつての仲間といつなんどき同じ轍を踏まぬとも限らない恐怖心ゆえの行為に走ったと思われる。逮捕後すぐに森田恒夫は留置所内の鉄格子にタオルを括りつけて縊死したから、20代で逮捕されて以来、65歳にして命絶えるまで生き延びた永田洋子を、リンチ事件の象徴的な存在として捉えることが出来るだろう。
 森田恒夫と永田洋子をリーダーとするこの過激派セクトのリンチの実態が、特に週刊誌などの報道を通じて明らかになるにつれ、世間の人々は眉をひそめて、あってはならない事件だというように締めくくった。無論、この種の思想的、実践的な問題と隔絶した理由によるリンチ事件などあってはならないし、リンチという行為そのものがまかり通る世の中であってはならない、という考え方は至極まっとうなものだ。僕だってそう思う。
 しかし、こうも考えられないだろうか?永田洋子という存在は、大罪を犯した冷酷非情な人間かも知れないが、世界史レベルでこの事件を俯瞰してみれば、僕たちはすぐに大きな権力の中で秘密裏に行われてきた粛清という名の、有無を言わせぬ死刑を想起せざるを得ないのではないか?そして、粛清と名の殺人者の数はこの世界の中には、累々として、数知れぬのである。粛清というと、ポル・ポト派の大量虐殺をすぐにイメージしがちだが、世界史の中の政治的事件としては、粛清された人々の数を認定することすら困難な、大量虐殺は何度も、何度も、繰り返されてきた人間の暗黒の歴史的行為である。スターリンは一体、どれほどの人々を粛清してきたのっだろうか?あるいは、チャウセスクはどうなのだろう?東西冷戦時代の東側諸国で粛清された人々の数など現在ではつかみようもない。東西冷戦後も、粛清が途絶えたことはない。現在の中国はどうか?北朝鮮はどうなのだろうか?つまりは、記号としての永田洋子は、粛清という政治的虐殺行為として、過去から現在に至るも脈々と絶えることなくうち続いている存在なのである。
 記号としての永田洋子の行為は、何も独裁政権下においてのみ起こる出来事ではない。東西冷戦が終わった当初、西側諸国の御用学者たちは、こぞって、資本主義の勝利だ、と恥も外聞もなく勝利宣言したものである。これこそが馬鹿げている!それでは、資本主義下における社会制度とは、多くの民にとって、安心立命して生き抜いていける世の中なのだろうか?表だった政治思想上の理由で粛清されることは、少なくとも報道上は殆ど見受けられないと言っても過言ではないだろう。しかし、自由主義的競争原理という虚妄のもと、一部の人間にしか手に入れられない情報があり、それが金融情報であれ、政治的なそれであれ、この種の情報を独占する輩が確実におり、彼らは、結局は、政治的・経済的な支配体制を構築する。富の独占も当然に起こる。大多数の、カスのごとき情報をマスコミから受け取っては、とりとめもない投資をして破産の憂き目に遭う人々、投資などという概念すらも感受できないほどに飼いならされたもの言わぬ労働者たちにとって、勝敗の行方など、レースがはじまる前から分かりきっているスタートラインに立たされる。その結果、日常のささやかな生活もままならない状況に陥ると、自ら命を断つ人々も多く出てくる。日本では13年連続の3万人を超える自殺者を出し、また、同じように西側先進国とかつては称された国々でも、多くの自殺者が出ている現象をどのように説明したらよいのであろうか?これを自由主義競争という名の、虚妄の、不平等な状況のもとにおける、緩慢なる粛清だとは言えないだろうか?ここにも、記号としての永田洋子は存在してはいないだろうか?
 残念なことに、記号としての永田洋子を超越するべき思想は、この世界のどこにもまだ現れ出てはいないのである。今日の観想として書き遺す。

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