ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○現代における生の物語性について少々。

2011-02-21 12:23:02 | 哲学
○現代における生の物語性について少々。

もし、僕が、人は誰もが、自分固有の物語性の中で生きている、と言い放ったら、そのことに対して反論したくなるのでしょうか?たぶん、反論する人々の反論たる思想のコアーというのは、自分は現実の世界で生きているのであって、物語などという虚構の中で生きているのではない、と論駁することでしょう。日常生活をきちんとおくり、仕事をし、帰宅したらいつもどおり食事をし、風呂に入り、明日に備えて眠るという現実を生きているのだ、と。

勿論、生きるために不可欠な生活時間の要素を否定しているのではないのです。それは、僕にだって厳然としたかたちで、在るわけですし、そのこと抜きには、そもそも人は生存できないからです。前記した具体的な生活のパタンから、不幸にもリストラや、就職難で仕事に就けない人がいたとしても、それは生活時間の中から、仕事という要素を抜いて考えてみればよいだけのことです。

生きるための物語性とは何ぞや?ということですけれど、それは別の言葉で表現すると、生きる意味と言い換えてもよいものです。しかし、生物学的な視点から見ると、たとえ人間には考えるという能力が備わっていたとしても、生きること自体に意味などないのです。論理的にものを言うために敢えて、このように言い切ります。

今日は、人間の物語性というごく限られた一側面への言及です。哲学と現実的な政治的テーゼの簡単なアウトラインについて。そもそも現代という時代は、価値が錯綜している時代です。簡単に言うと、極論すれば、人はそれぞれ勝手気ままな価値観で生きていれば、それでよいのだ、という相対主義的思想ですけれど、たとえ勝手気ままな価値観というものであれ、人は、それぞれの生に対する物語性の土台に乗っかって生きているわけです。たとえば、勝手気ままという物語の上に。しかし、所詮相対主義的思想というのは、ずっと昔に遡りますが、ソクラテスやプラトンが考え抜いた、<真・善・美>の世界観が崩れた結果の、真理は無数にあってよいのだ、という究極のアナキズム状態を指していうのです。無論、こうなった根拠はあります。政治的・歴史的な反省のもとに出てきたものが、アナキズム的な相対主義という現代的な物語の実体です。<真・善・美>が屈折して、政治的に悪用されると、その時々の権力者たちの絶対主義的な価値観が生きる指標になってしまいますから、それに反する考え方の持ち主は、極端な場合、粛清されたり、暗殺されたり、投獄されたりします。ポル・ポト政権や、文化大革命や、ヒトラーのナチスや、その他諸々の独裁主義をことさら掲げなくても、みなさんには、なぜ現代が、相対主義という物語的な無政府状態に傾斜していったのかがお分かりになるでしょう。

こういう相対主義に対してダメ出しをしている動きも当然あります。日本における分かりやすい例は、西部邁とか、小林よしのりの存在を想起してください。彼らは、やはり、幻像あるいは、物語としての天皇制を持ち出すのですが、僕は、生の物語性に対して、何も古臭い天皇制を掲げることもなかろう、とは思っています。天皇制の賛美は、分かりやすい絶対主義の復古ですけれど、やはり、政治的価値観としては、民主主義が人間の知恵の産物としては、最も優れているとは思います。民主主義的な価値意識を持ちつつ、しかし、勝手気ままな相対主義に陥らない唯一の課題とは、それぞれ異なった考えを抱いている人々が、その違いを超えた価値の共通項を持とうとする意思です。これを、現代における政治的な粛清もない、暗殺もない、拷問もない、投獄もない、歩みはノロいとは思いますが、とても意味ある生きる物語性のあり方ではなかろうか、と思っているのです。口幅ったく、また乱暴に物を言いました。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃