○「生きる意味」なんて云っても、それは後知恵の産物だろうからね。
世界情勢は動きを加速させてきた。中東情勢は、独裁主義に依拠している他の国々に対して、今後大きな脅威となり、具体的な影響を与えていくのは必須だろう。いくら、中国共産党が現在の中東情勢の情報を隠匿しようとしても、無駄な抵抗というしかないし、革命後に世襲制という堕落した政治に固執している北朝鮮などは、中国の後ろ盾そのものを失う危険の只中にいるわけだから、内部で物言う人間の粛清を繰り返そうと時代の流れを止めることなど不可能なことだ。アメリカも偉そうなことを言うな、と言いたい。レーガン大統領の時代に、リビアを空爆し、カダフィの私宅に爆弾を打ち込み、息子を殺したではないか。テロの撲滅というのがその理由だが、リビアをはじめとした、中東の石油の独占が本当の理由だ。その後のイラクのフセインの糾弾的裁判と処刑、彼の二人の息子のアメリカ軍による殺害。独裁者が辿る分かりやすい崩落の姿だ。だからこそ、そもそも政治に正義などない、と声を大にして言いたいのである。いかにより多くの民が安心して飯が食えるかが、政治のあり方の大切な指標だろうから。
前置きが長くなった。今日の本題は、人間のどうしようもない性とでもいおうか、生きる意味に関する模索のあり方についての、僕なりの観想を述べることである。敢えて、政治に正義はない、と言い放ったが、今日のテーマに関して言えば、生きることに、大仰な意味などない、と断言しておくべきだろう。僕の断言することの意味は、あくまで本質的なことだ。人間は考える。だからこそ、本来意味なきことに意味を見出そうとする。人は何のために生きるのか?という言い古された言辞は、21世紀の現代においても健在である。姿を変え、かたちを変えた<生きるための意味論>が流布している。
人は10代後半から、遅く見積もっても、20代前半までには、一旦は社会という空間の中に投げ入れられる。少なくともそれが、人の生き方として正当なありようだという確固たる考えのもとに世の中は動いている。しかし、よく考えてみれば分かることだが、社会という器の中に飛び込む前の、あるいは飛び込んだ直後の人間の心境などは、たとえてみるならば、水の中の溺れかけの犬のごとき存在だ。あるいは、闇の中を泣きながら手探りで歩いている幼子のようなものだ。誰にも先のことなど見えてはいない。もし、将来、こうなりたい、ああなりたい、というような、さも具体性を伴ったかのごとき観想を抱いているにしても、それは相当に表層的な情報を、自己の確信に、あるいは目指すべき目標に置き換えているに過ぎない。その意味で、人生とは誰もが手探りで生きていくプロセスで、経験知としてつかみとっていくことが、自信となり、自己確立の土台となるものなのである。
若者に対して、理解なき、傲慢な言動を繰り返すおとなのみなさんは、あるいは、若者に対して、理解あると思い込んでいるおとなのみなさんも、その現れ方が異なるだけで、一致していることがある。それは、過ぎ去った自分の未知なるものに対する怖れ、いじけ、憤怒の情などを忘却し、それらを難なく乗り越えてきたのだ、という錯誤を犯している、ということだ。生きることに大仰な意味などないにしても、そこに意味を見出さずにはいられないのが、人間の知恵の働きであり、また、逆に言うと、人間の欲深さ、諦めのつかなさから来ている欲動ゆえなのである。したり顔のおとなから見ると、若者の試行錯誤などは、なんとも見るに耐え得ない頼りなきことのように感じるとは思うが、そこは、ぐっと堪えて踏ん張ることだ。それがおとなの知恵であり、賢明な選択肢でもあるだろう。子育てに失敗したと思っておいでのお父さん、お母さん、まだまだ。僕は、子育て失格者ではあるし、上記のようなことを言う資格なき人間かも知れないが、懺悔の意味を込めて、勇気をふりしぼって、敢えて書き遺す。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃
世界情勢は動きを加速させてきた。中東情勢は、独裁主義に依拠している他の国々に対して、今後大きな脅威となり、具体的な影響を与えていくのは必須だろう。いくら、中国共産党が現在の中東情勢の情報を隠匿しようとしても、無駄な抵抗というしかないし、革命後に世襲制という堕落した政治に固執している北朝鮮などは、中国の後ろ盾そのものを失う危険の只中にいるわけだから、内部で物言う人間の粛清を繰り返そうと時代の流れを止めることなど不可能なことだ。アメリカも偉そうなことを言うな、と言いたい。レーガン大統領の時代に、リビアを空爆し、カダフィの私宅に爆弾を打ち込み、息子を殺したではないか。テロの撲滅というのがその理由だが、リビアをはじめとした、中東の石油の独占が本当の理由だ。その後のイラクのフセインの糾弾的裁判と処刑、彼の二人の息子のアメリカ軍による殺害。独裁者が辿る分かりやすい崩落の姿だ。だからこそ、そもそも政治に正義などない、と声を大にして言いたいのである。いかにより多くの民が安心して飯が食えるかが、政治のあり方の大切な指標だろうから。
前置きが長くなった。今日の本題は、人間のどうしようもない性とでもいおうか、生きる意味に関する模索のあり方についての、僕なりの観想を述べることである。敢えて、政治に正義はない、と言い放ったが、今日のテーマに関して言えば、生きることに、大仰な意味などない、と断言しておくべきだろう。僕の断言することの意味は、あくまで本質的なことだ。人間は考える。だからこそ、本来意味なきことに意味を見出そうとする。人は何のために生きるのか?という言い古された言辞は、21世紀の現代においても健在である。姿を変え、かたちを変えた<生きるための意味論>が流布している。
人は10代後半から、遅く見積もっても、20代前半までには、一旦は社会という空間の中に投げ入れられる。少なくともそれが、人の生き方として正当なありようだという確固たる考えのもとに世の中は動いている。しかし、よく考えてみれば分かることだが、社会という器の中に飛び込む前の、あるいは飛び込んだ直後の人間の心境などは、たとえてみるならば、水の中の溺れかけの犬のごとき存在だ。あるいは、闇の中を泣きながら手探りで歩いている幼子のようなものだ。誰にも先のことなど見えてはいない。もし、将来、こうなりたい、ああなりたい、というような、さも具体性を伴ったかのごとき観想を抱いているにしても、それは相当に表層的な情報を、自己の確信に、あるいは目指すべき目標に置き換えているに過ぎない。その意味で、人生とは誰もが手探りで生きていくプロセスで、経験知としてつかみとっていくことが、自信となり、自己確立の土台となるものなのである。
若者に対して、理解なき、傲慢な言動を繰り返すおとなのみなさんは、あるいは、若者に対して、理解あると思い込んでいるおとなのみなさんも、その現れ方が異なるだけで、一致していることがある。それは、過ぎ去った自分の未知なるものに対する怖れ、いじけ、憤怒の情などを忘却し、それらを難なく乗り越えてきたのだ、という錯誤を犯している、ということだ。生きることに大仰な意味などないにしても、そこに意味を見出さずにはいられないのが、人間の知恵の働きであり、また、逆に言うと、人間の欲深さ、諦めのつかなさから来ている欲動ゆえなのである。したり顔のおとなから見ると、若者の試行錯誤などは、なんとも見るに耐え得ない頼りなきことのように感じるとは思うが、そこは、ぐっと堪えて踏ん張ることだ。それがおとなの知恵であり、賢明な選択肢でもあるだろう。子育てに失敗したと思っておいでのお父さん、お母さん、まだまだ。僕は、子育て失格者ではあるし、上記のようなことを言う資格なき人間かも知れないが、懺悔の意味を込めて、勇気をふりしぼって、敢えて書き遺す。
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