ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○「重層的に」物事を考えたい、と思う。-日本の原発、世界の原発に関わることとして。

2011-03-13 13:50:34 | Weblog
○「重層的に」物事を考えたい、と思う。-日本の原発、世界の原発に関わることとして。

ものの考え方として、最初にこの「重層的」という概念をもちいたのは、思想家の吉本隆明だったと思う。吉本は、哲学・文学・カルチャー・サブカルチャーすべてにわたる概念性を単一的に過ぎる(これは吉本の言葉ではなく、僕の胸に落ちた上でのそれだ)もの、として批判的に論じている。告白すると、吉本の文体は、なぜかすんなりと僕の脳髄の中を駆け巡るようには受容されない。簡単に言うと、僕にはとても読みづらい思想家だといえる。そのくせ、常に吉本の著作には分からないままに目は通す。手にとっては、放り出し、放り出しては性懲りもなく読むふりを決めこむ書の代表は、吉本の「言語にとって美とはなにか」である。これだけは、いまだに分かった気がしないから困りものなのである。しかし、吉本の思想の中で、重層的にものごとの本質に迫っていく思考回路については、確かな手ごたえを持って僕が考えるための大切な道具的ファクターである。

メディアの用語を使うと、今回の大地震は「東日本大震災」ということらしいが、いまや、当該地域は、たいへんなことになっている。テレビ報道では捉えきれない悲惨な状況が起こっているものと思われる。この地方に大地震と、それによる大津波がおしよせているという報道を最初に知ったとき、僕の頭の中を駆け巡ったことは、地震や大津波による日常生活の壊滅的な破壊については、阪神・淡路大震災の経験もあり、想像に難くなかったが、いったい、かの地に散立する原子力発電所は、どうなるのか?という疑問だった。電力会社は、石油に頼らぬ方法として、おおむね原子力発電所増設の方向へと舵を切っていたはずだ。資源としては有り余るほどにある天然ガスの使用は、可能性としてはあるにしても、国策として、すべての電力を原子力に頼るという構想が確実に練られていたはずだし、劣化ウランの処理という金のかかる、また結局は地中に埋めるしか方法のない、危険で、未来の世代に対して無責任極まりない選択肢を国のエネルギー政策として、税収の少ない地方に札束で面をはたくようにして、建設していった。当該地の賛成派は、目先の銭金に目がくらんだ政治家や地方の有力者、それに、哀しいことに微々たる金に目のくらんだ庶民も確実に賛成派にまわったからこそ、原発推進派の首長が選挙に勝ってきたのである。政治的責任を負うのは、勿論自民党である。この問題が起こってからの自民党はさすがに口をつぐんでいる。民主党が稚拙なミステイクを犯さない限り、自民党は、批判しない。これは確実に。

劣化ウランの処理(といっても完全に放射能を無化することなどできないのである)施設のあるフランスに海上からフランスに向けて劣化ウランを満載して出航した日本船は、フランス国民の猛反対に遭い、フランス政府もとどめることが出来ず、銭儲けを諦め、放置された。当の日本船は結局日本に帰還せざるを得なかった。これもおかしな、不条理な話なのである。劣化ウランの放射能をある程度抑えたとしても、たとえ、フランスの処理施設で劣化ウランの処理がなされたとして、そのあとどうなるか、である。答えは分かりきっている。貧しい国に安い金で引き受けてもらうのである。そして、引き受けた国は、自国の地中に埋める。将来のことなど考えてはいない。利権を貪ることの出来る人間たちは、銭を手にしたら、ある時期になると、海外に居を移せばよいだけの話だ。当然、その国の庶民は置いてけぼりだ。どうしようもない。

日本国内でも、発想としては、同じことが起こってきたのである。自民党政府と電力会社は、御用学者を使って原子力の安全性を吹聴した。高橋秀樹をはじめとするアホウな役者たちが、原子力のクリーンさと電力の安定供給のイメージ的な安全性を捏造した。日本は地震大国。分かっていたはずだ。今回のようなことがあれば、どうなるかくらいは。それでも、銭金の論理が勝つのである。たけしは、えらいねえ。彼は天然ガスの宣伝にしか出ないから。起きてしまったことは仕方がない、という理由なのだろうか、かつての原子力発電推進派の学者たちが、コメンテイターとしてテレビで喋っているが、所詮、原子炉の解説屋さんでしかないね。それでも彼らは、時折ぼそっと呟いている。原子力が危険というけれど、すぐに太陽電池発電や風力発電で電力はまかなえないなどとね。どういうわけか、天然ガスのことは言わない。

かつて、広瀬隆が、「東京に原発を」という書を世に問うた。広瀬の論理に弱点があったとするなら、それは、石炭資源の復活を根底に据えた、原発反対論だったということだ。世はまさにオゾン層の破壊が話題になり、環境問題に関心の深いときだったから、みんなは、広瀬のもう一つの重要な問題提起の意味の深さを読み飛ばした感がある。広瀬の論旨の重要なところは、己れの身に危険が降りかからないことに対して、人間はあまりにも無関心である、ということである。あるいは、自分とは無関係に感じることに対しては、偽善的な態度に終始するということである。彼の究極の問いかけは、電力消費量の最も大きい東京に原発がつくれるか?という厳しいものである。あの悲惨な結末を招いたチェルノブイリと同じ仕組みの、地上型の原発を東京につくることは可能だろう。それを政治の論理、経済の論理、民衆のエゴを超えて果たしてなし遂げられるのか?という問い詰めであった。過疎で、産業が少なく、税収もあてにならない県へ原発建設を金の力でおし付けるという構図があるかぎり、原子力の持つ負の要素をどうするか、という視点は、まず半永久的に問題にされることはない。

僕は思う。ほんとうに国民のひとりひとりに、原子力発電がクリーンで、問題がないという自覚があるならば、各県に一つずつ原発をつくればよい、と思っている。海岸線があるところには、現存するものと同じ原発を。内陸部には、チェルノブイリ型の原発をつくり、せいぜい明々とした生活を享受するとよい。ただし、そのリスクは、みなが背負うのである。市民的善意と市民的エゴとは裏腹である。経済の論理もある。単純に弱きところに、困難なことが流れていかないように、僕たちは、多面的に、重層的に、視野を広げて考え、行動しなければならないだろう。当分の間、避難民に対する全国からの善意の嵐が吹き荒れる。しかし、地震は自然災害にしても、それにともなって、原子力発電所が、大破したとしたら、大破とまではいかないにしても、多くの被爆者が今後苦しむとしたら、それは、善意を施している市民の裏面に潜んでいるエゴのもたらした結末でもあるのだ。こういうことを書かずにはいられなかった。今日の観想として、書き遺す。

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