ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○実を言うと、もう僕の人生、どうだっていいんだって思っているか、な?それでも、少し。

2011-03-09 11:27:33 | Weblog
○実を言うと、もう僕の人生、どうだっていいんだって思っているか、な?それでも、少し。
 振り返ってみると、自分の人生、たいしたことなかったなあ、ってつくづくと感じ入る次第。生きているな、という、たぶん錯覚だと思うけれど、そういう錯覚を感じることが出来たのは10代の後半まで。時代の趨勢もあったのだろう。好き勝手が出来たから、たぶん、そういう好き勝手を、生きている実感と錯誤していたものと思う。正直に告白すると、ついこの間まで、人生、もうひと勝負あるか、と自分を納得させてみようともしてみたけれど、どうもいまは実感が伴わない。そろそろ引き際をどう締めくくるのか、ということに想いを馳せた方がよさそうである。さて、締めくくるに当たって、何とか人さまのお役に立ちたいとは思うのである。とりわけ、若き人が力があるのに、躓いているのを見ると、放ってはおけないね。別にいまの仕事にも、もはやそれほどの思い入れもないので、仕事とは別に、自分の持てるものが他者のお役に立つといいと思っている。だって、いまのカウンセラーにしても、10年前までやっていた教師という仕事も、ともすると自分の力量以上に自己評価してしまいかねない陥穽がひそんでいるので、できるだけ仕事とは無縁のところでの、人生最期の勝負どころとしたいものだ。さて、何が出来るのだろうか?銭金には縁がなかったから、それ以外ということになれば、いったい僕に何がある?思い違いでなければ、ちょっとした想像力と、ときに見誤る可能性の高い洞察力というものだろうかな。物語を書き綴るだけの胆力と才能があれば、一つや二つくらいは、著作が書き残せそうなものだが、いまの僕に出来ることと言えば、こんなふうにつぶやくことくらいか。まあ、無理をすれば、精魂尽きるまでに、小説のひとつくらいは書き遺しておける元気はあるみたい。がんばってはみようとは思う。どうだっていいにしろ、抗いくらいは、僕のごとき凡庸な精神の持ち主でも出来るだろうからね。
 さて、人間の活動領域の、どのようなジャンルにおいても、ずば抜けた才能を発揮する人というのは、自分の獲得するべきものの、一瞬の輝きを自分独自の才能の力でねじ伏せるだけの力があるということなのではないだろうか。才能のない僕にでも何とはなしに確信を持って言えることだから、おそらくはドンピシャとはいかぬまでも、当たらずと言えども遠からずというところだろう。
 一つだけ、分かりやすい例を掲げるとすると、誰にでも出来そうで、才能のあるなしが、歴然としているものでは、写真というジャンルがわかりやすいだろう。たぶん、多くの人は、写真とは、実物をあるがままに映し取るもの、というような漠然とした定義をしているのではなかろうか。僕は違う、と思う。たとえば、被写体としての対象を肉眼で見るとする。それを写真で撮る。いまどきのオートフォーカスという馬鹿げた技術だと分かりにくいが、たとえ、オートフォーカス機能を使ったとしても、被写体を撮る人の感性によって、実像としての被写体と、写真として切り取って、才能を駆使した結果の像は、似て非なるものに違いない。何故なら、写真とは、そもそも自覚的であるかどうかは別にしても、撮影者の感性によって、ある一瞬の<時>を撮影者の世界像として獲得するプロセスそのものであるからだ。これが芸術でなくてなにであろうや。絵画になれば、話はもっと分かりやすいだろう。小説や哲学であれば、思想の確立として認識されるだろうから、ますます理解しやすいと思う。その他、歴史的史実となった出来事の一つ一つが、その史実に関わった人間の言動の生み出した結実とも云えるものだから、これだって、才能のある人は、人の記憶に残る歴史的史実を創る当事者になり得るわけである。
 本題にもどろう。もはやどうにでもなれ、というやけっぱちに近い感性でも、希望はある。期待感も。人間とはどこまでいっても、その意味では欲深き存在だ。小さき世界像であれ、一瞬の<光>を止まることなき時間の流れの中で、この手につかみとりたい!これが誰の記憶に留まることも望んではいない、ささやかな僕個人の欲動である。しかし、自己満足とは一味違う次元に立ち入りたいとは痛切に思う。生き留まっているのは、こういう欲動ゆえなのである。がんばる!オッサンなりにね。

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