ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○来る知事選をめぐって考えたこと。

2011-03-25 18:06:38 | Weblog
○来る知事選をめぐって考えたこと。
 知事選の幕開けである。やはり、絶対に今回の選挙の課題から外してはいけない問題がある。福島原発崩壊後の具体的な影響の現れが明らかになったこと。原子力というものは人間が扱いかねる存在であるということ。関東圏に於ける上水道の水質汚染にまで広がる現実を前にして、原子力発電所の問題を、地方に押し付けて済ませることなどできない、という当たり前の現実の認識。原子力がクリーンで安全だ、という保障なきデマゴギーの上に胡坐をかき続けた結末を、自民党を筆頭にして、各既成政党が、定義づけのいかんに関わらず、選挙課題にして来なかったこと。僕の視点からするとこんなところが、 今回の知事選の抜き難き課題だろうか。
 繰り返して言うが、必須の選挙課題は、原発被害に対する候補者たちの姿勢を問うものでなければならない、と僕は思う。福島原発の復興に関するニュースは報道されはするが、どのように期待感を抱こうと、現実は一進一退である。楽観的になりたいという気分は、マスコミ報道から強く感じ取れはするが、状況がそれを許さない。福島原発の壊滅的崩壊の可能性、なきにしもあらず。こんな情勢の中で、これまでの原発推進派の自民党及び公明党からの推薦者たちは、国に対して、原発の安全基準を見直させるのだ、という。日本の政治こそが、根っ子から見直されなければいけない時期に来ているというのに。日本のマスコミ報道はすべからく、福島原発報道に対して楽観的に過ぎるし、放射能被害に対する認識が甘すぎた。海外メディアの報道との大きなズレがよくそのことを証明している。海外の各政府はこぞって自国民を本国に呼び戻した。こういう現実がある中で、安全基準の見直しの必要性で原発存続を訴える候補者は信頼に値しないと考えるべきだろう。予期せぬ災害の大きさだったにせよ、そのことで、壊滅的崩壊の危機に直面している福島原発が今後どうなるのか?たぶん、政治家たちの情報網でも十分に事態の掌握が出来ていない。このような状況のもとで選挙公約として掲げるべきは、日本の原発の一切の操業停止が前提である。それ以外の「安全神話」に基づく対策?を公約にするような首長は、首長たり得ないと考えるべきなのではないか?事実を曲解するような強弁などもはや通用しないのである。
 少なくとも日本のテレビ報道に登場する殆どの原子力に対する識者の見解は甘すぎる。この期に及んで事実の隠蔽も出来はしないから、彼らがやっている罪深き言動とは、根拠なき楽観論を振りまくことでしかない。最悪の事態は、福島原発の大爆発による放射能の、より広範囲の飛散である。こういう事態が起こる可能性は高いと思われる。何とか沈静化できたとしても、すでに農作物や原乳に対する放射能汚染、広域に渡る上水道の放射能汚染、海域への放射能汚染の拡大、それらがもたらす食物汚染の連鎖。現在福島原発に投入されている数百人という作業員の被ばくによる今後の影響。アメリカのスリーマイル原発事故よりも放射能の飛散の程度は大きいという報道がついになされた。あのチェルノブイリ原発とほぼ同程度の環境汚染を起こす可能性についても報道されるようになった。すでに大爆発による壊滅的崩壊に匹敵することが現実に起こっているのである。高度経済成長化におけるイタイイタイ病などの患者認定のあり方は言うまでもなく、公害被害者の認定そのものが、いかにお粗末になされてきたかを考えると、いま、ここの被ばく量が専門家の言うようにすぐに命の別状には繋がらないという言辞を安易に認めるわけにはいかない。その後に起こるガンの発症と、原子力被害との因果関係を証明することの困難さを考えると、背筋が凍る想いがする。
 かつての東海村原子力発電所における作業員二名の被ばくによる死亡について、僕たちはどれほど無関心であり、他人事だったかを猛省するべきだ。僕たち人間は、現在報道されているとても人間らしい、すばらしい勇気ある言動、自己犠牲も顧みずに実行できる力がある一方で、これまで原発の危険性や地域住民に対する共感がどれほど出来ていたのか、とても大きな疑問が残る。いまやこの大災害でみんなの関心は沖縄の基地問題にまで向かないようだが、同じ種のことが繰り返し起こってきたことに、僕たちはもっと関心を持つべきなのである。
 他者のために何ができるか、を真剣に考え実行する側面と、生起した出来事がいかに重大事であろうと無関心を装える側面。人間の表と裏を見る想いがする。あるいは、崇高さと醜悪さ。僕たちは、この二面性から逃れられないのだろうか?人間が真の意味で幸福になれるのは、おそらくは、このような二面性を凌駕できたときではなかろうか?見通しはとても暗いのだけれど。それにしても、僕の脳髄の中で鳴り響いている言葉。それは、カタストロフィー、カタストロフィー!という雄叫びそのものなのである。

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