○たしかに、「みんないってしまう」んだけど・・・・・
山本文緒が「みんないってしまう」という短編集のあとがきの中で、こんなことを書いている。自分にとって、いろいろな思い出深いものを列挙して書いた後の記述だ。<みんなもうどこにもない。かすかな感傷と共に、それらを自分から手放したことを思い出す。たとえば青空に浮かんで動いていないように見える白い雲が、ちょっと目を離した隙に遠くまで流れて行ってしまうように、物事は思った以上に早いスピードでどんどん流れていく。そういうことを最近やっと実感できるようになり、その結果、ちょっと私はせっかちになった。急がなければ、今手の中にある物も、そばにいてくれる親しい人も、明日にはいってしまうような予感がして仕方がないのだ。>と。このあとがきの最後に、1996年の秋と記されているから、山本が34歳のときの作品集の観想ということになる。
自分の34歳とはえらい違いだ。もう20数年前になるが、その頃のことは、はっきりと覚えている。あの頃、上の息子が小学校に上がった頃、下の息子はまだ4歳だった。ひょっとすると誰もが無理をしていたのかもしれないが、世の中のお父さんたちは、少なくとも表層的には、子どもの将来を思い、教育の心配をし、家計を出来る限り磐石にするために、がんばっていたように見えた。デジカメというものはまだなかったが、運動会や学芸会というと、彼らはまるでプロのカメラマンよろしく、誰に構うことなく、かなり重苦しいビデオカメラを肩に担ぎ、自分の子どもの姿が最もよく見える場所を当然のように占領する。それが子どもたちに対する愛情の唯一の表現法であるかのように。大抵は日曜日の出来事だから、若いお父さんたちは、スーパーで買ってきた安物のジーンズか、チノパンに、上はポロシャツか、少し冷えると、その上に絵に描いたように同じような模様の丸首のセーター。色はグレーが圧倒的に多く、サラリーマンの背広(そう、セビロというのが一番よく合った表現だ!)をセーターにしただけのようなセンス。よくて紺色か。別れた女房も、父親というのは、同じような服装をし、同じようなにわか仕込みのカメラマンになることを当然のように考えていたようだ。
僕はといえば、服装のセンスもわざと外す。彼女にいわすれば、当然のことながら、場にふさわしくない服装。ビデオカメラは、購入せず。申し訳程度に使い捨てカメラで、こそこそとわが子を撮る。ともかくそうしている自分が恥ずかしかったからだ。何でこういうことで、子どもたちに対する愛情のあり方が測られるのか!という憤懣やるかたない気分だった。離婚は、この後ずっと先のことだったが、絵に描いたような家庭像を望む女房との精神的な距離は、年を追うごとに加速を増して大きくなっていった。価値観も合わなんだ。子育てに行き詰ると、僕を飛び越えてエホバの証人の勉強会に自宅を開放する。新興宗教がいかんというような即断を避けるために、エホバの証人とは何ぞやと、こちらも一生懸命に学習したが、聖書原理主義のこれは、終末論を根底にすえているわけで、こんなものを子どもに刷り込まれたらタマッたものではないと思い、ここらあたりで、夫婦の距離感は光の速度のごとくに開いていったと思う。仕事は、退屈であるがゆえに、あたらなことを見つけては実践した。労働組合にも力を注いだ。が、僕は新左翼上がり、仲間であるはずの他の役員たちは、ことごとく日本共産党員。うまくいくはずがない。同じ左翼といっても思想的には敵対関係だからだ。いや、だった、というべきか。その頃、新左翼は思想的な土壌を失い、いかなる意味においても影響力などなかったが、僕の裡にくすぶっていた、かつての思想の燃えカスが、自分の根拠なきプライドとなり、心の奥底では、共産党員の彼らを小馬鹿にしていたと思う。孤立するはずだな。
あの頃、僕はなにもかもに対して見る目がなかった。世間様とは、教師という職業ゆえにつながっていただけのことだった、と思う。失職したとき(その頃のことは何度か書いたので省く)、すべてが、僕のまえから消失した。47歳にもなって、山本文緒が到達した心境にすら届かず、ただただ、空漠感の中に身を浸すことしかできなかった。ただ、拙き気づきに過ぎなかったが、僕なりの「みんないってしまう」という感慨の、苛烈なその後の日々の中で、かつて世間で通用していたはずの、あらゆる社会的要素が剥がれていった。なにもかも失ったが、これまでの人生とはまったく異なる生の地平を見ることになった。正確には、見るハメになった、というべきだろうな。あれから、ゼーゼー言いつつ生きてきて、そろそろ死の間際。いまは、どうやって、この自分の人生と折り合いをつけていこうか、ということ、換言すると、みなさんにはおかしな響きを持った言葉でも、僕には至極まっとうな表現になる。それは、<どうやって、きちんと死ねるのか>を考えつつ生きているということである。その意味で、僕にとっての「みんないってしまう」とは、どのような内実を伴った終焉の言葉になるのだろうか、と少々楽しみでもあるわけだ。昨今、そんなことを考えながら、まじめに生きておりますよ。僕なりに、ですけれど。さて、次に山本文緒を読むなら、「ブラック・ティー」という短編集を選択するね。いま、手元にあって、少し読み始めたけれど、これがまた、最近になってやっと気づいたことを山本はさりげなく物語の世界にして、提示してくれる。やはり優れたプロフェッショナルは違うね。文庫本で出ています。手にするものの大きさと比べて、文庫本とはありがたいほどに安い。タバコが止められなくて高い税金を支払っているお父さん、タバコ代を本に回したらいかが?お徳ですよ。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム 長野安晃
山本文緒が「みんないってしまう」という短編集のあとがきの中で、こんなことを書いている。自分にとって、いろいろな思い出深いものを列挙して書いた後の記述だ。<みんなもうどこにもない。かすかな感傷と共に、それらを自分から手放したことを思い出す。たとえば青空に浮かんで動いていないように見える白い雲が、ちょっと目を離した隙に遠くまで流れて行ってしまうように、物事は思った以上に早いスピードでどんどん流れていく。そういうことを最近やっと実感できるようになり、その結果、ちょっと私はせっかちになった。急がなければ、今手の中にある物も、そばにいてくれる親しい人も、明日にはいってしまうような予感がして仕方がないのだ。>と。このあとがきの最後に、1996年の秋と記されているから、山本が34歳のときの作品集の観想ということになる。
自分の34歳とはえらい違いだ。もう20数年前になるが、その頃のことは、はっきりと覚えている。あの頃、上の息子が小学校に上がった頃、下の息子はまだ4歳だった。ひょっとすると誰もが無理をしていたのかもしれないが、世の中のお父さんたちは、少なくとも表層的には、子どもの将来を思い、教育の心配をし、家計を出来る限り磐石にするために、がんばっていたように見えた。デジカメというものはまだなかったが、運動会や学芸会というと、彼らはまるでプロのカメラマンよろしく、誰に構うことなく、かなり重苦しいビデオカメラを肩に担ぎ、自分の子どもの姿が最もよく見える場所を当然のように占領する。それが子どもたちに対する愛情の唯一の表現法であるかのように。大抵は日曜日の出来事だから、若いお父さんたちは、スーパーで買ってきた安物のジーンズか、チノパンに、上はポロシャツか、少し冷えると、その上に絵に描いたように同じような模様の丸首のセーター。色はグレーが圧倒的に多く、サラリーマンの背広(そう、セビロというのが一番よく合った表現だ!)をセーターにしただけのようなセンス。よくて紺色か。別れた女房も、父親というのは、同じような服装をし、同じようなにわか仕込みのカメラマンになることを当然のように考えていたようだ。
僕はといえば、服装のセンスもわざと外す。彼女にいわすれば、当然のことながら、場にふさわしくない服装。ビデオカメラは、購入せず。申し訳程度に使い捨てカメラで、こそこそとわが子を撮る。ともかくそうしている自分が恥ずかしかったからだ。何でこういうことで、子どもたちに対する愛情のあり方が測られるのか!という憤懣やるかたない気分だった。離婚は、この後ずっと先のことだったが、絵に描いたような家庭像を望む女房との精神的な距離は、年を追うごとに加速を増して大きくなっていった。価値観も合わなんだ。子育てに行き詰ると、僕を飛び越えてエホバの証人の勉強会に自宅を開放する。新興宗教がいかんというような即断を避けるために、エホバの証人とは何ぞやと、こちらも一生懸命に学習したが、聖書原理主義のこれは、終末論を根底にすえているわけで、こんなものを子どもに刷り込まれたらタマッたものではないと思い、ここらあたりで、夫婦の距離感は光の速度のごとくに開いていったと思う。仕事は、退屈であるがゆえに、あたらなことを見つけては実践した。労働組合にも力を注いだ。が、僕は新左翼上がり、仲間であるはずの他の役員たちは、ことごとく日本共産党員。うまくいくはずがない。同じ左翼といっても思想的には敵対関係だからだ。いや、だった、というべきか。その頃、新左翼は思想的な土壌を失い、いかなる意味においても影響力などなかったが、僕の裡にくすぶっていた、かつての思想の燃えカスが、自分の根拠なきプライドとなり、心の奥底では、共産党員の彼らを小馬鹿にしていたと思う。孤立するはずだな。
あの頃、僕はなにもかもに対して見る目がなかった。世間様とは、教師という職業ゆえにつながっていただけのことだった、と思う。失職したとき(その頃のことは何度か書いたので省く)、すべてが、僕のまえから消失した。47歳にもなって、山本文緒が到達した心境にすら届かず、ただただ、空漠感の中に身を浸すことしかできなかった。ただ、拙き気づきに過ぎなかったが、僕なりの「みんないってしまう」という感慨の、苛烈なその後の日々の中で、かつて世間で通用していたはずの、あらゆる社会的要素が剥がれていった。なにもかも失ったが、これまでの人生とはまったく異なる生の地平を見ることになった。正確には、見るハメになった、というべきだろうな。あれから、ゼーゼー言いつつ生きてきて、そろそろ死の間際。いまは、どうやって、この自分の人生と折り合いをつけていこうか、ということ、換言すると、みなさんにはおかしな響きを持った言葉でも、僕には至極まっとうな表現になる。それは、<どうやって、きちんと死ねるのか>を考えつつ生きているということである。その意味で、僕にとっての「みんないってしまう」とは、どのような内実を伴った終焉の言葉になるのだろうか、と少々楽しみでもあるわけだ。昨今、そんなことを考えながら、まじめに生きておりますよ。僕なりに、ですけれど。さて、次に山本文緒を読むなら、「ブラック・ティー」という短編集を選択するね。いま、手元にあって、少し読み始めたけれど、これがまた、最近になってやっと気づいたことを山本はさりげなく物語の世界にして、提示してくれる。やはり優れたプロフェッショナルは違うね。文庫本で出ています。手にするものの大きさと比べて、文庫本とはありがたいほどに安い。タバコが止められなくて高い税金を支払っているお父さん、タバコ代を本に回したらいかが?お徳ですよ。
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