ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○他者に心をひらくのは、元来難しいものなのかも知れない、と思うなあ。

2011-02-06 00:19:03 | 観想
○他者に心をひらくのは、元来難しいものなのかも知れない、と思うなあ。


仕事がら、学校や会社や、あるいはご夫婦、親戚等々における人間関係のほつれが原因で、それをどのように修復するのか、という相談に乗ることが多いのである。昨今の社会が、この不況のもとで、構造的な欠陥を晒すハメになってしまったので、人の心もその影響を受けないはずがないわけで、相当に人間関係というものを構築するのが困難な時代なのか、と思う。血の繋がりがあろうとなかろうと、なんだか、人間どうしの関係性というものが、とても壊れやすくなっているようにも思うのである。


僕なんかの無骨な神経の持ち主だと、自分の真正直な感情を他者に伝えれば、必ずやそれが誤解なく伝わるものだと思い込む。しかし、これが意外にそうでもないようなのである。おまえ、いくつになって、そんなことを言っているのか、とお思いの方々が多いのかも知れないが、正直に告白するが、僕はごくごく最近まで、このように信じて疑わなかった人間なのである。特に血の繋がりのある親類、と云っても僕には兄弟姉妹がいないので、いきおい、幼き頃から仲の良かったいとことは、この歳になっても腹を割って話せる関係なのだと思い込んでいた。住居も離れ、生きている環境も違ってしまうのだから、なかなか会う機会もなく、連絡も途切れがちにならざるを得ないのは仕方ないとしても、いったん話をし始めれば、長年の空白など、すぐに埋まってしまうものなんだろう、なんてタカを括っていたら、思わぬ出来事にくじけて、少々ふさいでしまうことがあったのである。長年連絡をとっていなかったいとことの回路が開けたので、電話したら向こうも時間の空白を感じさせない話しぶりだったので、これからも時折連絡し合おう、ということで話を終わったものの、それ以降の、こちらからの何度かのメールを完全に無視された。電話してやろうか、と思ったが、メールに対して無返信を決め込むのだから、話したくもないのだろうな、と思い、君の僕のメールに対する無返信の意味は、僕との関わりを持ちたくないのだな、という問いかけをわざわざ送ったが、それにも無返信だったので、それが、おまえの答えかい、と思い、もはや生涯会うこともない人間どうしになってしまったのだ、と納得した次第である。

こつこつと、平凡なサラリーマン生活を全うしようとしている彼にとっては、生活破綻者ともいえる僕の生きざまから判断して、金のムシンでもされかねないとでも思ったのだろうな。たぶんそういう意味で関わりを拒否されたわけだ。平凡なサラリーマンの君よりも、僕の方が銭金は確実に多く持っているというのに。やつは、しかし、いったい、何を守っているつもりなのだろうか、とやはりいまだに確かめたい気分は濃厚にはある。ともあれ、失敬なやつやな、と思う。嫁さんと二三回電話で話したことがずっと前にあったから、彼女の箴言かもなあ。彼女の話しぶりからすれば、僕などは、勝手気儘な生き方をしている無責任な人間だということになるらしいから、そういう横槍でも入っているのかも。あるいは、やつ自身がやはり、変質したのかも知れないな。こいつは母方のいとこ。もう一人仲良くしていた、父方のいとこも、こちらが連絡したら愛想よく電話で対応していたが、メルアドを送れよ、と二度ほど催促したけれど、とうとうなしのつぶてだった。以前に、祖母の葬式で、このいとこの嫁さんも知ることになったが、これもきついオナゴだったから、彼女の影響かも。それともやつ自身がやはり変質したのかもしれんね。どいつもこいつも、という感じだけど、たぶん、自分が招いたことが原因なのだろうから、致し方なしか、とも思う。とはいえ、別に彼らに対して、迷惑をかけたことなどないんだけどね。敢えていうなら、僕なんかは、彼らの常識の枠外で生きている人間になってしまっているのだろうかな?


人間って、結局、歳をくらうにしたがって、家族という狭隘な世界の中に関係性を収斂させていくようだから、なんともはや、寂しい限りと云わざるを得ない。何歩も譲って、たとえ、そういう人間の価値観を認めるにしても、家族という血縁が紡ぎ出す絆というものが、幻想でなく濃密なものであれば、それもよし、だろうが、かたちだけの家族像があって、実体として解体しているような家族ならば、そこへ人生を収斂させていくなんて、僕の感性では、ぞっとするだけだな。まあ、こんな人間だから敬遠されるのかも。そういうことなんだろう。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

○人間、生きる意味を求めるのは当然なんだけど、少なくとも、いまの僕のアプローチは、ね。

2011-02-04 22:59:47 | Weblog
○人間、生きる意味を求めるのは当然なんだけど、少なくとも、いまの僕のアプローチは、ね。
 歓ぶべきことなのか、そうでないのかの、客観的な判断なんか出来はしないけれど、この世界に生まれ落ちたときから、いかに僕の頭の出来がよろしくないとはいえ、それなりに考える、という行為に慣れ親しんで生きてきたわけだから、どう控えめに見ても、自分とはなんぞや?自分の生きた軌跡に意味があるのか、そうでないのか?という自問が習い症になった感がある。
 とは言え、僕のブログを読んでくださる方の中には、ブログに書いたことのすべてが、私小説のごとくに、僕自身の言動の結末が、現実、ありのままであると考えているのだろうか、と思うこともある。なるほど、僕の書いてきた事象に関わる問題は、勿論事実に基づいてはいるが、しかし、事実そのものではない。現実に自分の身に降りかかった出来事の集積から、なにほどか、現在の自己を規定するべき課題を敢えて抽出して書いてはいる。が、それらの過去の事象に現在という時限から、あるいは現在の言語感覚から、過去の事象を一般化しているわけで、当然のことながら、書いたものには、エセら事という意味ではなく、物語性というファクターが絡みついているのは必然なので、そういう観点で読んでもらえると、これからも書きやすきこと、この上ない。なにより、別に僕はブログの読者に対して、自己の過去のありさまを告白しているわけではなくて、物語性を差し挟むことによって、自分が関わった個別の事象に、ある種の一般化、もっと大袈裟に言うと、普遍化というファクターを付加しているつもりなのであるから。僕のHPには、文芸評論集を一冊出したことになっているし、出版社が倒産したこともあり、本のアイコンをクリックするとアマゾンにジャンプするようになってはいるが、もはや、それは古本でしか手に入らない。なんの意味かは分からないが、古本の値段は、7000円を超えている。おかしな現象だ。古本の市場価格がどのように決まるのかまったく分からないが、何か希少価値でもあると見込んだ結果だろうか?自分で云うのもなんだが、内容はたいしたものではない。真面目には書いているけれど、それ以上でもそれ以下でもない。
 ごく一握りの才能に恵まれた人々ならば、それぞれの活躍の場における結果それ自体が、広く他者の記憶にとどまるような幸運に恵まれてもいるが、大方の平凡な人々(無論断るまでもないことだが、僕も含めて)にとっては、相当に意識的にならなければ、自分の生の軌跡など、塵あくたのように、風に吹き飛ばされてそれっきり、だ。人間の生などは、そういうものだし、それこそが人生というものだ、というような悟りの境地に立ち至った人は、またそれもよし。しかし、僕のような人間に至っては、到底そうはいかないのであるから、死に至るまであくせくと自分の生の痕跡を残さんとヒ―ヒ―言っているのではなかろうか。勿論、その種のドタバタ劇など、誰の記憶にもとどまらないことを承知の上の、ひとり芝居であることの自覚を持った抗いであるにしても。
 歴史の、いかなるジャンルにも名を残せない人間のひとりとして、なし得ることとは何か?自己満足でもなく、自己卑下でもない、自己の生の痕跡の残し方とは、いったいどうあるべきなのか?あるいは、そもそも生の痕跡を残すなどということこそ、盲想なのだろうか?知らぜざる人間は、黙して語らず(僕の書くことなどは、沈黙と同義語であるから)、この世界から立ち去るべきか?と、そんなことを自問していると、この種の自問こそが、なにやらとても不毛にみえて、その実、知らぜざる人間になし得る最大の実践なのかも知れないと思えないこともない。勿論、この日本が激して、変化の激流がまた再び到来したとき、自分が生きているのか、もう死して無に帰しているのかは知らないが、生きているとするならば、言葉どおりの実践を、かたちにするのだ、という想いは棄てぬままに残りの生を生き抜いてみせる。そういう覚悟は、裡にあるとは思うのである。今日の観想して書き遺す。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム     長野安晃

○ムバラク政権打倒、多いに結構なことだ、と僕は思う。

2011-02-03 16:17:58 | Weblog
○ムバラク政権打倒、多いに結構なことだ、と僕は思う。
 そもそも同じ政治体制が、30年にも及ぶということが異常事態だろう。人間の本質などタカが知れているので、あまりに長期間、権力を握っていると、権力者が、何でも自分の想いどおりになると感じてしまうのは、あたりまえのことだし、実際、政治の腐敗も起こる。ムバラク大統領がいくら権力の座にしがみ付こうと、もうムリだろう。フィリピンのマルコス政権だって、よく似た終焉を迎えたように、ムバラクが無事にエジプトにとどまることさえ、困難なことだろう、と思う。ひとりの人間に権力が集中すると、あたかも自分に人並み外れた能力あり、という錯誤が生じるのは必然なのである。それが人間の限界だとも言える。だからこそ、政権交代という政治システムが必要なのだが、そもそも政治の仕組みとして、政権交代すら出来ないような一党独裁体制の共産国の国々のあり方などは、なおさらお話にならない。
 それにしても、この日本と云う国は、おかしなもので、保守政権になって以来、ほんのいっとき社会党が政権を握ったときを除けば、ずっと自民党の政治路線が続いていたと言っても過言ではない。これは所謂55年体制などというものを視野に入れずとも、1955年以前から戦後ずっと実質的なアメリカ政府の属国としての地位を引き受ける代わりに、高度経済成長という飴を国民に与え続けてきた保守政権のもとで、日本国民が政治的実践力を喪失させられてきた歴史そのものだろう。こんな国はめずらしいのではなかろうか、と僕は思う。長年、日本がアメリカに次いで、GDP世界第2位の座から転落して、第3位になったということが、マスコミなどで喧しく報じられているが、これは致し方ないだろう。人口減に加えて、日本企業がどんどんと安い賃金などを求めて海外に生産の根拠地を移していく中での転落なのだから、こういう結果にこだわることもなかろう、とは思う。ただ、日本国内の産業構造が工場などの海外移転で、いま以上に空洞化していくと未来は相当に暗いものにならざるを得ないと思う。また、政府が国民を守るよりも大手銀行を守る施策の方を大切にしている限りは、国内の産業が育つどころか、衰退するのは目に見えているではないか。大手銀行に対する政府主導が日本のあり方だとするなら、もっと、日本の優秀な中小企業に設備投資のための低利の融資をする指導を大手銀行にするべきだし、資本がなく、担保もとれないとしても、事業計画の良し悪しによって、新たな起業家が育つように、低利融資を積極的になさせるようにしなければ、日本の産業はジリヒンに甘んじることになる。もうバブル時代の銀行の享楽の尻拭いをしてやる必要なんてないのではないか。真面目に勤めあげていれば、終身雇用制のもとで、何とか郊外に一戸建ての家も持て、退職金を切り崩しながら、年金生活に甘んじれば老年をまず心配なく暮らせた時代もどこへやら。いまは業績不振といえば、すぐに経費削減、とりわけ人件費削減とくるわけで、サラリーマンは明日をも知れぬ毎日。いつなんどきリストラの憂き目に遭うやも知れない。職場自体もギスギスしているようで、うつ病患者の数は増えるばかり。いや、あらゆる精神疾患患者が急増している。13年連続で、自殺者が3万人以上にもなる国なんて、戦時国よりひどいだろうに。具体的な現象を書いていけばキリがないので、これくらいにするが、日本人は、もっと怒るべきときなのである。各地でデモが起きても決しておかしくはない時代の、この日本で、老人は安穏と老後とやらを過ごせるなどと思うことなかれ。また若者たちは、そもそも低賃金のもとで、将来像も想い描けないのである。なんで派遣社員などという職階が出来たのか?生活保護世帯に対して、税金を3兆円もつぎ込み、帳尻を合わせたつもりでいる政治家たちを、みなさんは許せるのだろうか?すぐにでも打てる手がいくつもあるのに、なんにもしない。民主党の馬鹿さ加減にはほとほとウンザリさせられるが、長過ぎた自民党の政治が現代社会のひずみを生みだしたのである。民主党がダメなら、自民党へなどという安易な考えももはや通用しない。
 どこに救いなどある?答えは、ノ―だ。ならば、かつて60年安保の時代に、国民の政治的運動のうねりの只中で、岸信介がサイレント・マジョリティは、安保に賛成なのだ、と云ってのけた、私たちサイレント・マジョリティが、声をあげなければならない時期に来ているのではなかろうか。革命?そんな大袈裟なことは言わない。せめて政治・経済のリノベーションくらいでもよい。そういう声をあげようではないですか。ねえ、みなさん、そうは思いませんか?

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム     長野安晃

○拡散と統合に関する雑感

2011-02-02 10:54:36 | 哲学
○拡散と統合に関する雑感


まずは、人の内面に関する考察から。人の思考のあり方は、あるものごとについて考えたとすると、まずは、いくつかの異なった発想が頭の中を分散しながら、そのいくつかの分散した考えが、不統一に脳髄の中を駆けめぐる。みんなそうなのである。事の初めから考え方がまとまっていることなどまずないだろう。そして、このようなプロセスを、日本語では、逡巡する、というのである。そもそも人の思考とは、このようにしながら、あるひとつの考え方に収斂していくのである。人間の知恵とは、眼前に乗り越えるべき壁があるとすると、いろいろな試行錯誤、これを思考の分散段階とするなら、この分散の過程で、さまざまな発想が思い浮かぶ。そして、発想を統一出来るときに、人は目の前の大きく高い壁を乗り越えることが出来るのである。これを思想の統合の成果と云って差し支えないだろう。


これをフランス現代哲学用語で云うなら、思想の再構築ということになるだろうが、フランスの哲学は、ある意味、もっと過激であり、思想を再構築する際に既成の思想、価値観を一度ぶち壊す。再構築というのは、あくまで破壊の後に行われる思想的行為なのであり、お役御免の哲学などは、いったん崩壊させて、新たな思想を再構築する、というのである。無論、このプロセスにおいて起こり得るのは、かつては、修正主義として批判の対象になったものだが、マルクス思想と比較するとフランスからはじまった現代思想の思想の確立に関する方法論は、屁理屈づきなフランス人の感性によれば、修正主義もあり、ということになるから、フランス現代哲学は過激に見えて、その実、案外懐が深いのかも知れない。

さて、日常的な次元における、逡巡する、という概念についてだが、僕の考えでは、人間、多いに逡巡すればよろしいのであって、行ったり来たり、行きつもどりつ、というのは、人の考え方として当然のなりゆきだろう、と思うのである。その意味では、日本の仏教思想は、人の思想的な逡巡を、迷いという概念で否定してしまうので、ここにはウソがあるだろう、と思う。迷いを超越して、無我の境地に入るというが、これでは日常性からの離脱という行為がついてまわるのは当然である。だからこそ、仏教思想の中には、日常を棄て、修行と称して、迷いを払拭するために狭隘な仏門という檻の中に自らを閉じ込める禅的修業がある。修行と云えば聞こえはいいが、日常生活を極端なストイシズムの中に封じ込め、非日常性の中に安住するのであるから、そこで得た高潔?な思想は、狭苦しい檻の中でしか通用しない代物でしかないのは必然なのである。そもそも人間的なあらゆる欲動を抑止した生活を修行というような逆立ちした逃避には、日常性の中で生起する難題を解決する回路がそもそもないのである。僕の発想では、座禅的修行などは、日常の中で行き詰った感情を、ほんのいっとき非日常の中に置いて、カタルシスを味あわせるがごときの、ゴマカシにしか思えない。禅的ストイシズムの修行の只中にいる雲水さんが、夏のクソ暑きときに、クーラー、ガンガンに効いた喫茶店でアイスコーヒーを飲んでいる姿は滑稽だが、ある意味、正直でよろしかろう、とも思う。ついでに言わせてもらうと、禅宗以外の宗派が、人間の苦悩と対峙出来るとは到底思えない。だって、彼らは、世襲制の中で胡坐をかいているし、税金は免除されているし、銭金にはとんでもない執着を持っている人たちが多いので、まったく信用出来ない。その他の新興宗教も集金マシーンのごとくに、人の内面的な弱みに付け込んでは、銭金をくすね取るわけで、こういうのは、信用出来ないという域から逸脱した、殆ど詐欺的集団だと僕は思っているのである。


この世界には、絶対者や超越者などいない。頼れるのは自分だけだ。また、自分で鍛えた思想だけである。その思想の彷徨の果てに繋がった人間の力の集合体としての人間相互の力である。その意味で、人は、自己の思想を鍛える場合、思考の拡散を怖れてはならないし、むしろ、拡散から統合への道のりを歩いてほしいのである。その結果のあとにしか、ほんものの人間の関係性などは生まれないと考えてしかるべきだ。人間の関係性の構築にも同じ種の拡散と統合の理念はついてまわる。言わずもがなだが。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃 

○「陽水の快楽」に関する雑記

2011-02-01 15:53:49 | Weblog
○「陽水の快楽」に関する雑記
 歌手の井上陽水という人は不可思議な人だとつくづく思う。シンガーソングライターという言葉はすでに死語になっているのかも知れないが、陽水は自分で作詞作曲をやり、歌う、という種類の歌手である。若い人も、彼の歌をカラオケなんかで歌うことがあると思うが、井上陽水が出現してきたのは、いまの若者たちが生まれるずっと前、僕が高校1年生のころだから、時代背景としては、70年安保闘争のうねりの中に現れ出た人だ。この時代は、学生運動にのめり込んでいった若者も、そうでない人も含めて、自分が置かれた時代性に対する何らかのメッセージソングとしての、フォークソングに思い入れが強かったはずなのである。それがいっときの虚妄であれ、時代はまさに動かんとする胎動を感じさせるに十分な時代の中に、僕たちの世代が好むと好まざるに関わらず、ほうり込まれていた証左なのだと思う。
 しかし、メッセージソングのジャンルとはまったく違う曲をひっさげて登場してきたのが、井上陽水である。彼のどこまでも透き通るように出る歌声と、魅惑的な声質は、どういうわけか僕の心をわし掴みにしたのである。メロディーは、それなりの深刻な要素を持っている。たぶん、その頃の時代性と背反しなかった。しかし、問題は彼が高くて甘い声で絞り出す歌詞なのである。政治的、社会的メッセージ性などカケラもない。それどころか、彼が書いた歌詞は、論理性もないし、どれもこれも意味論として捉えるならば、ちぐはぐ極まりないのである。少し紹介する。たとえば、メッセージ性があるようでないもの。「都会では自殺する若者が増えている、今朝来た新聞に書いていた、行かなくちゃ、君に会いに行かなくちゃあ、君の街に行かなくちゃあ、傘がない~」とか、「~ある日、踏切の向こうに君がいて、遮断機が降りて、振りむいた君は、もうオトナの顔をしてるだろう~」また、あるいは、なんだか知らないけれど、「小春おばさん~」と無意味に絶叫するものまであるわけである。
 井上陽水という人は、いくら時代的切迫感の中においても、本来は人間の、何気ない日常的なるものへの傾斜という、心的状況の隙間に入り込んできた天才的な歌手なのではなかろうか。陽水がいくら魅惑的な声色をし、心浮き立たせるメロディーを提示し続けたところで、それだけのものならば、陽水に匹敵する歌手は他にもいる。しかし、現れては消え、消えては現れるこの種の歌手たちのようには、陽水は立ち消えることなく、デビューから今日に至るまでずっと第一線で活躍し続けてきたのである。そうであれば、特別ななにものかを彼の中に見出さずには、彼の存在の説明がつかないことになるだろう。
 竹田清嗣という哲学者は、ご存じのように日本におけるフッサール研究の第一人者である。フッサールの現象学の大物に突き当たるまで、彼は世界の現代思想の研究者という称号を与えるのがふさわしい日本の哲学者だと思う。哲学者として思考の深化を遂げながらも、自身の在日2世としての存在理由についても突き詰めた論考を書き綴っている。その竹田が、「陽水の快楽」(河出文庫)の作者なのである。この書自体がよい論考だとは思わないが、竹田が陽水の曲相を分析すればするほど、陽水が出現した時代における、その存在の異化性について語るべく、陽水賛美の書を書き綴らざるを得なかったとしか僕には思えない。
 時代性や、時代の背景とともにもてはやされる思想とは、一線を画すというか、時代背景から、屹立して存在する歌手として、竹田は井上陽水の存在理由を語っているように思えてならない。かといって、陽水は哲学者のような姿かたちをしているわけではない。むしろ、語り口はなよなよした単なるおっさんである。トレードマークの真っ黒なサングラスをしていなければ、お話にもならないようなシマラナイ顔つきなのである。だからこそいいのかも知れない。それが、井上陽水の魅力の抜きがたい魅力なのかも知れない、と妙に納得している昨今なのである。ちなみに陽水の、意味のなさない何曲かは、僕自身のi-Podに入っている。井上陽水とは、どこまでもおかしな存在である。いまも、時代を超えた売れっ子歌手だ。どうなっているのだろうか。

京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム      長野安晃