34.雷天大壮
大壮は、大いに壮ん(盛ん)の意味。内卦乾の溢れんばかりのエネルギーを外卦震を通じて発散する形象。遯でその人なりの進路を見出した後、この大壮で最終的な自己確認が行われます。これまで在籍していた環境の影響力を断ち切っていくために、自分自身に勢いをつける状態。基本的に力押しするタイプなので、周囲の意見に耳を貸すことは少なくなります。イメージとしては「危険も知らずに道路に飛び出していく幼子」「若さや体力に物を言わせて暴走する人」「思い出を回顧することで今の自分と統合させて、新しい人生に向かっていく人」といった感じです。(あくまで個人的なイメージなので、人によっては違和感があるでしょうけど。)
ところで、自分が見切りをつけたものにしつこくこだわっている人達に対しては、批判的になったり、哀れみの目で見て逆に反感を買ったりしがちです。だから、ここでは「立つ鳥、跡を濁さず」という気持ちで丁度いいのではないかと思います。それは恒の対称卦である小過の「飛鳥これが音を遺す」(まだ地上という着地点が残されている)とは違い、禁忌とか封印を破ってでも行こうとするのですから、未練を持っていたら先へは進めません。恒にしても、仮に離婚しても協議次第では子供に会えるかもしれません。あと、頤や対称卦の渙にも身辺整理をする性質がありますが、それはいわば残務処理のようなものなので、これも大壮の「垣根を破る」ような意味合いとは異なります。
陰陽反転すると観。観は観察・分析・冷静に客観視する姿勢。大壮が何事も体当たりでぶつかってゆくのに対し、観は状況を冷静に見て作戦なり計画を練ります。選手と監督、もしくは観客の関係。例えば何かを知るという場合、大壮は直接体験するので危険と隣り合わせになりますが、ストレートに肌で感じ取れる利点があります。実際にやってみて初めて分かる、ということを真に理解する。相手の実力も、自分の今の実力も分かる。一方、観はスポーツをテレビ観戦している人のようなもので、あれこれ口出しするわりには実際には一度も経験がなかったり…という皮肉なケースもあり得ます。
実際には、両者の関係は理論(知)と実践(行)という相補的な関係なので、どちらかだけに偏っても片手落ちになってしまいます。「言うは易し行うは難し」の時もあれば、「案ずるより生むが易し」という時もあります。参加すべきか静観すべきかは、その時々の状況や対象となる内容によって異なるにしても、上手に両方の立場を行き来することで関わる事柄に対する理解の幅と奥行きを広げることができるだろうと思います。
対称卦は未済。大壮も未済も屯・晋から30番目で、一つの区切りとなる卦です。節目としての転換期または過渡期を迎えている状態。大壮では、卦の勢いを昇華して新しい環境(晋以降の30卦)への扉を開こうとしています。未済では、卦を一巡して新生するための自己相対化を行う段階です。以前に経験した乾ではなく、別角度から見た乾、もしくは別天地にある新しい乾を目指して自分を分離します。大壮も未済も共に、現在の状態からの離脱のプロセスを敢行しています。これまでの経験を総括・整理し、必要に応じて取捨選択した後に、自分の存在を支える意思や目的のみを携えて(それ以外のモノは解放して)、新たな舞台に歩みを進めていくのです。
このプロセスの過程で、本当の意味でのアイデンティティを見出すことになりますが、実のところ、それも一瞬のまばたきのようなものでしかなく、いつの間にか幕が下りてしまいます。瞬間的な眠りに落ちるような感じ。そして気がついた時には、もうかつての時間や場所には戻れなくなっています。境界を越える前に自分の本意を知るのは新生のための最終確認であって、新生した後にも維持していけるとは限りません。ですが、その時に抱いた意思が羅針盤となって次の自分という歴史を築いていくので、決して無駄にはなっていません。また、仮にどこかで自分の目指していたものを思い出すことができたら、そこから意識的な人生が始まります。
大壮と未済は、どちらも自己受精とか自家薬籠中のものとする性質です。自分で自分を補完し、統合するタイプ。過去の自分と現在の自分、そして未来の自分をより合わせて一つにしていく作業。停滞を望まず、常に流れや刷新の中に自らを置いて更新し続けようとします。この性質がよく働けば、過ぎ去ることにこだわらないフランクさになりますが、悪く働けば最後の一押しが足りない(詰めが甘い)結果になったり、無謀さを咎められたりします。四コマ漫画のようにオチがつく、問題の当事者として足がつく等。抜けたところがある方が人間臭くていい時もありますが、いつもそんな状態では見限られてしまいます。大壮・未済は、突き詰めて言えば克己心だと思うので、自分を律することのできる人は、新たな道に進んでも、きっと上手くやっていけるだろうと思います。
<爻意は後日、追加更新します。>
大壮は、大いに壮ん(盛ん)の意味。内卦乾の溢れんばかりのエネルギーを外卦震を通じて発散する形象。遯でその人なりの進路を見出した後、この大壮で最終的な自己確認が行われます。これまで在籍していた環境の影響力を断ち切っていくために、自分自身に勢いをつける状態。基本的に力押しするタイプなので、周囲の意見に耳を貸すことは少なくなります。イメージとしては「危険も知らずに道路に飛び出していく幼子」「若さや体力に物を言わせて暴走する人」「思い出を回顧することで今の自分と統合させて、新しい人生に向かっていく人」といった感じです。(あくまで個人的なイメージなので、人によっては違和感があるでしょうけど。)
ところで、自分が見切りをつけたものにしつこくこだわっている人達に対しては、批判的になったり、哀れみの目で見て逆に反感を買ったりしがちです。だから、ここでは「立つ鳥、跡を濁さず」という気持ちで丁度いいのではないかと思います。それは恒の対称卦である小過の「飛鳥これが音を遺す」(まだ地上という着地点が残されている)とは違い、禁忌とか封印を破ってでも行こうとするのですから、未練を持っていたら先へは進めません。恒にしても、仮に離婚しても協議次第では子供に会えるかもしれません。あと、頤や対称卦の渙にも身辺整理をする性質がありますが、それはいわば残務処理のようなものなので、これも大壮の「垣根を破る」ような意味合いとは異なります。
陰陽反転すると観。観は観察・分析・冷静に客観視する姿勢。大壮が何事も体当たりでぶつかってゆくのに対し、観は状況を冷静に見て作戦なり計画を練ります。選手と監督、もしくは観客の関係。例えば何かを知るという場合、大壮は直接体験するので危険と隣り合わせになりますが、ストレートに肌で感じ取れる利点があります。実際にやってみて初めて分かる、ということを真に理解する。相手の実力も、自分の今の実力も分かる。一方、観はスポーツをテレビ観戦している人のようなもので、あれこれ口出しするわりには実際には一度も経験がなかったり…という皮肉なケースもあり得ます。
実際には、両者の関係は理論(知)と実践(行)という相補的な関係なので、どちらかだけに偏っても片手落ちになってしまいます。「言うは易し行うは難し」の時もあれば、「案ずるより生むが易し」という時もあります。参加すべきか静観すべきかは、その時々の状況や対象となる内容によって異なるにしても、上手に両方の立場を行き来することで関わる事柄に対する理解の幅と奥行きを広げることができるだろうと思います。
対称卦は未済。大壮も未済も屯・晋から30番目で、一つの区切りとなる卦です。節目としての転換期または過渡期を迎えている状態。大壮では、卦の勢いを昇華して新しい環境(晋以降の30卦)への扉を開こうとしています。未済では、卦を一巡して新生するための自己相対化を行う段階です。以前に経験した乾ではなく、別角度から見た乾、もしくは別天地にある新しい乾を目指して自分を分離します。大壮も未済も共に、現在の状態からの離脱のプロセスを敢行しています。これまでの経験を総括・整理し、必要に応じて取捨選択した後に、自分の存在を支える意思や目的のみを携えて(それ以外のモノは解放して)、新たな舞台に歩みを進めていくのです。
このプロセスの過程で、本当の意味でのアイデンティティを見出すことになりますが、実のところ、それも一瞬のまばたきのようなものでしかなく、いつの間にか幕が下りてしまいます。瞬間的な眠りに落ちるような感じ。そして気がついた時には、もうかつての時間や場所には戻れなくなっています。境界を越える前に自分の本意を知るのは新生のための最終確認であって、新生した後にも維持していけるとは限りません。ですが、その時に抱いた意思が羅針盤となって次の自分という歴史を築いていくので、決して無駄にはなっていません。また、仮にどこかで自分の目指していたものを思い出すことができたら、そこから意識的な人生が始まります。
大壮と未済は、どちらも自己受精とか自家薬籠中のものとする性質です。自分で自分を補完し、統合するタイプ。過去の自分と現在の自分、そして未来の自分をより合わせて一つにしていく作業。停滞を望まず、常に流れや刷新の中に自らを置いて更新し続けようとします。この性質がよく働けば、過ぎ去ることにこだわらないフランクさになりますが、悪く働けば最後の一押しが足りない(詰めが甘い)結果になったり、無謀さを咎められたりします。四コマ漫画のようにオチがつく、問題の当事者として足がつく等。抜けたところがある方が人間臭くていい時もありますが、いつもそんな状態では見限られてしまいます。大壮・未済は、突き詰めて言えば克己心だと思うので、自分を律することのできる人は、新たな道に進んでも、きっと上手くやっていけるだろうと思います。
<爻意は後日、追加更新します。>
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