坎為水と離為火の卦意・爻意の解釈全文は以下にあります。
(坎為水のリンクを貼るのを忘れてましたので、ここで一括します。)
=========坎為水=============
このブログ内で読む場合は、こちら。
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=========離為火=============
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8月の最終日に限って用事が重なり、今日中に離為火上九の解釈書けるか?!と危ぶまれましたが、ギリギリセーフで何とか8月中にはUPすることができました。
まあ、別にそこまでこだわる必要もなかったのですが、「今月中にやる!」と宣言していたので、その約束を守れたことに勝手に安堵しています
正直なところ、要望も出てるし、このまま下経に突入して書いていきたいのですが、自分の現状を思うと、なかなかそうもいかずジレンマ状態です。これが仕事になったら喜んでやるんですけど(笑)
ところで、今日、久々に街に出かけたのですが、立ち寄った書店で「易占入門」(宇澤周峰=著)という本を見つけました。もう5年以上、易どころか占い関連の本を買ってなかったのですが、しばらく休止させていただく間に、再び基礎から勉強しなおそうと思って購入しました。再開がいつになるかは未定ですが、その頃には、今よりもマシな解釈ができるようになっていたいと思います。
それはそうと、この「易占入門」は緑の表紙の本なので、「サイコロを使った 実占 易経」(立野清隆=著)の赤い表紙と並べると、なんだか村上春樹さんの「ノルウェイの森」上下巻のようです。
易の本って、あまり気楽に読めるものって依然として少ないんだなーと、店の書棚を見て改めて思いました。前から、物語風にストーリーを楽しみながら易を学べるようなものが書けるといいなーと思ってましたが、簡潔な文章で読みやすいものも書いてみたい気持ちになりました。
いずれ実現できることを願って。
易経入門―孔子がギリシア悲劇を読んだら (文春新書): 氷見野 良三
この本おすすめ。
学術的、占い的な正しさは怪しいが、読み物としては抜群に面白い。
視点が非常に斬新。
まだ入手してませんが、視点が斬新とのことなので読むのが楽しみです。ありがとうございました。
陰陽―八卦―64卦という一貫した意味生成の構造そのものよりも、易経の字句を重んじる、という立場に立っていらっしゃるように思います。
それは、なぜでしょうか?易経の信頼性は、何によって担保されているとお考えですか?
この私的解釈に先立って考えていることは、字句や字義というよりも、むしろ僕が軸として見ている数字の意味です。
その数字の意味と易卦の配列を関連付け、それが陰陽で肉付されているという考え方の下で、主に解釈を行っています。
http://www.wa.commufa.jp/forward/eki_no_kankeisei.png
一般の易書にあるような読み方ではなく、独自の方法論に基づいて意味を考えていることから、自分が異端的であることは自覚しています。
もちろん、生成の基本原理を軽視しているわけではなく、単に新しい試みとして行っている、ということです。
ただ、このコメントを受けて、改めて幾つか自分の解釈を見てみましたが、確かに字句から話を広げていたり、ほとんど基本的な仕組みに触れずに書き進めている面があり、独善的で、あまり親切ではないかもしれないと感じました。
更新が止まってしまっているのも、自分は「井の中の蛙」だと認識して落ち込んでしまい、このスタイルのまま最後まで通していいものか悩んでいる、というのも大きな理由の一つです。
色々と気が付かされることがありました。
どうもありがとうございました。
下記長文になりますが、こういった書き込みがお邪魔でしたら率直にお伝えください。
■改めてCIさんの意味の根幹らしき記述を拝見しましたが、分かるところと分からないところがありました。
感じたのは、あたかも言語ゲームのようであるということでした。
「はっきりしない易経の意味」を、易経内部の関係性・相互依存性を構築する中で意味の強化が可能となるだろう、という予測のもとに、体系を模索しているように見えるということです。
■こういった形で基礎づけを与えるのもひとつの立場ではあると思いますが、朱子のように、あるところでは交どうしの関係性・あるところでは字句から、というように、角度は違えどつまみ食いのようにならざるを得ないと思います。
CIさんは相当に整然とした体系構築に美学を見出す方のようですので、これだと悩みに繋がってしまうかもしれないなあと思います。
■上記のようにならないためにどうすればいいか。
素直に考えますと、繋辞伝の美学そのままに、易経の64卦の意味というのは、
陰陽の意味→四象の意味→八卦の意味→64卦の意味
という風に、根源的象徴から整然と展開・構築していく、というように模索すれば、不安定さはなくなると思います。
もちろん結果として、易経の字句は春秋戦国~秦期にあまりに改竄されすぎ、本来の体系をほぼ失ったもの、という風に見えるようになる、ということはあり得ると思います。
ただし、基本的には否定された易経のその文言のさらに基盤に、ほのかに「現初の易・易経」の意味の痕跡が浮かび上がる、という感覚もあり得ます。
■ちなみに陰陽の実体的意味ですが、次のように考えます。(単に相補性を表す符号である、ということでは意味とは言えません)
陽は絶対自我・陰は極的な観察と基盤の場であり、スピリチュアリティの所に書いていらっしゃる悟りの風景での世界の二元性だと思います。
これを把握することで、易経などなくても当然に算木1本で易占は可能だと思います。その意味の展開としてよく微細な感覚を感じていくことで、八卦の意味も即今把握することができ、八卦のみによる占も、もちろん可能だと感じています。
僕に「美学」があったとは、全く考えてもみなかったことでしたので、新しい発見に驚いています(笑)
僕が本質的に悩んでいるのは、・・・上手く言えないのですが、ご指摘されたこととは、ちょっと違うのです。
ここでの解釈は先にも述べました通り、異なったアプローチ法を試しているということであり、そのことについては特に悩んでいるわけではありません。
伝統的な方法で書きたかったならば、当初からそのように始めていただろうと思います。僕はただ、別の見方ができるんじゃないかなと、その可能性を提示しているに過ぎません。
そしてこれに関しては、「易経内部の関係性・相互依存性を構築する」と見ていただいたのであれば、一応は成功の途上にあるように思います。
個人的に筆が止まってしまっているのは、先のコメントで述べた理由に加え、ご指摘の通り、スピリチュアリティのところで書いた二元性の統合や超越というテーマに心を浸してしまったからだと、自分では思っています。
それ以来(この1年来)、易占を含め、占い(運命学)を日常の中で用いることがほとんどなくなってしまい、すっかり焦点が外れてしまったのです。
そのため、解釈の続きを書こうとしても、意識がそこに乗っからず、煮え切らないような感じになってしまい、「こんなハッキリしない状態では書けない」と躊躇しては保留にするを繰り返しています。
もちろん、これは単に占いをしなくなったことで経験や学習の蓄積が止まってしまい、単純に僕が易を忘れてしまった、ということも大きな理由だと思います。甘えや逃げであるかもしれません。
再び書き始めるには、笑われるかもしれませんが、真面目な意味で二元性を超越する体験を経て、一元(易では太極でしょうか)を十分に感じ、それから、ちゃんと自分なりに整理する必要性を覚えている、というのが正直なところです。
期待された返答とはまるで異なっているかもしれません。論旨を得ないような冗長な文で失礼しました。
とにかく、重ねてお礼を述べたいと思います。
>再び書き始めるには、笑われるかもしれませんが、真面目な意味で二元性を超越する体験を経て、一元(易では太極でしょうか)を十分に感じ、それから、ちゃんと自分なりに整理する必要性を覚えている、というのが正直なところです。
これに関して思ったことですが、まさに筮法というのは、陰陽の体得に最も向く行法だと思っています。
繋辞伝通りの本筮法を、朝昼晩夜、行い続けますと、心境も開けてくるかもしれません。
筮法は様々な静的瞑想よりも、動的に陰陽の一元・二元の体得に最も繋がることを感じております。
易は、何も足さず、何も引かなくても、それだけで完成していると感じます。
これ以上ないお言葉を頂いたように思います。
易に向き合うには外縁を撫でているようではダメで、きちんと正面から取り組めと諭された気がします。
反省する点は多いのですが、一々書いていたら長くなってしまいますので、とにかく感謝だけをお伝えさせて下さい。
色々とありがとうございました。