11.地天泰
小畜・履と「乾の道」の土台作りをしてきましたが、この泰と次の否で、それが人々に受け入れられるかどうかが問われます。単純に言えば、泰では理解と賛同が得られやすいが、否では軽視され反発に遭いやすい。地(陰)は下り、天(陽)は上り、それらが互いに調和融合するのが良い、というのが地天泰の意義なので、それに逆行する天地否は必然的に人々の共感を得ることは難しくなるわけです。ただ、各爻によって状況は異なるので、対処次第によっては泰も否も良くも悪くもなることは気をつけておく必要があります。天地陰陽の合成は、合金とか合皮のようでもあり、ミックスジュースのようでもあります。一方、否の場合は水と油のように相容れない関係を象徴しています。
泰は裏卦も綜卦も天地否。こういう関係は他に沢雷随と山風蠱、風山漸と雷沢帰妹、水火既済と火水未済があります。これらの上下(内外)の卦はどれも先天八卦図で対面する位置関係になります。完全に真逆。陰陽または視点を反転させただけの関係よりも明確に対概念を読み取ることができるはずです。否の場合は天と地が互いに離反してゆく形。理解し合うどころか、近づきたくないぐらいに思ったり、思われやすい関係。他の3つも考えてみると、餌に釣られて(兌)動く(震)随に対し、止まって(艮)風化(巽)する蠱、正式な手順を踏んでステップアップしていく漸に対し、面倒なプロセスをすっ飛ばして玉の輿を狙う帰妹、終わりを完遂する(決めたことを最後までやり遂げる)既済に対し、竜頭蛇尾になってしまう未済、というように全て逆意味の関係になっています。
一般に、泰は地という器に天というエネルギーが注入される格好なので、内容・内実があって縁起が良いと解釈されることが多いです。一方の否はエネルギーのレセプター(受容体)がない、つまり上卦乾に示される人や物事・考え方・政策などの受け入れ先(坤という下地:人々の賛同)がないということで、縁起が悪いと言われています。まあ、確かにその時々の状況を見ればその通りかもしれませんが、そこでの経験を将来どういう形で生かせるかによって長期における吉凶判断は異なってくるだろうと思います。要するに、微視的に見て吉でも巨視的に見て凶だったらそれはいかがなものかと思うし、故事成語の「人生万事塞翁が馬」的な視点に立てば何が吉で何が凶かなんて判断は真に要領を得ないものになってしまいます。「吉凶は糾える縄の如し」とも言いますしね。難しいです。
続いて、泰と否の関係をストーリーで考えてみます。泰で、気に入ったものと一体化していくと自分の主張とか個性が曖昧になっていきます。そして完全に同調してしまうと一般の人からは「アッチの世界に飛んじゃった人」的に思われる傾向が生じます。その結果として否では、その「アッチの世界」からリアル世界を見るので、どうしても自分と相手、善悪、正否というような対立性を強く意識せざるを得なくなります。自分の世界をガッチリ持っている反面、それに相反する価値観の人達を認められない、いきおい排斥したり強引に捻じ伏せようとするという性質が色濃くなるのです。そしてこれが行き詰ると、次には「どうせ受け容れられないのなら、自分と同じような考え方をする人(目的が似ている人)同士で集まるしかないだろう」と考えるようになり、否の後に同人(天火同人)の卦が来るわけです。
最後に、泰とシンメトリー関係に当たる夬(沢天夬)について考察を入れておきます。一見、共通項を思い浮かべにくいかもしれませんが、これらの卦には対象に対する鋭い集中力や同調性があります。泰の場合、男女に象徴される陰陽が融和することに焦点化が図られ、夬の場合は陰を決し去って、陽のみに一本化しようと神経が研ぎ澄まされていく。卦義としては安泰と決壊という風に反りが合わないように思えますが、その本質面では全体を特定の状態に極めようとする作用が働いています。そしてやがて極点を超えると立場が逆転します。安泰が崩れて閉塞感が立ち込め(泰→否)、陽が寝返り陰となって潜みます(夬→[女后])。
泰は毛色の違う者同士、理解し合えるはずもないように思えますが、自分で作っていた先入観とか壁(限界性)を突き抜けてしまうと、そうした相違点では物事を推し量れなくなります。自分とは遠い存在と思い込んでいても、実はどこかで似ていたり、同じ匂いを持っていることがあります。時には、相手に嫉妬していたことに気がついて意識が変わるかもしれません。大切なことを思い出させてくれた相手に感謝の気持ちが沸いてくることもあるでしょう。こうなると、当初は絶対に認めないとさえ思っていた相手を尊重できるまでになります。誰かを理解したり共感できるのは、少なからず自分にもその要素があるという証拠なのです。
そして、これと反対のことも言えます。誰かを否定したり批判するのは、自分の中にも同じような欠点があり、それに反応しているケースが多いのです。これらが泰と否の本質的な性質として作用しているのではないか、と思っています。
◇初九
泰の初めで正位、六四とも応じています。需や小畜でもそうだったように、下卦乾の三陽は応じる六四に反応する形で協同で進んでいきます。しかし泰の場合、陰陽和合の先駆けで共感力が強いぶん脆さもあります。初爻変はその卦義を無意識的に打ち出してしまうので、自分の意思があやふやになりやすく、特に泰は相手に同化しようとする性質から他者の判断に呑み込まれてしまうおそれがあります。それは大概、自分自身の知識と経験の不足、真偽を見抜けない未熟さが原因になっています。自分なりの方法論を確立できていない間は誰かの無責任な考えにさえ同意してしまいがちです。下手をすると、それが元で自分や周囲の人間を誤った方向に導いてしまうことにもなりかねません。今は感化力とか理解力を発揮する際に、その対象に対して無条件に入れ込んでしまう傾向があるため、もし的外れなものに手を伸ばしてしまうと大きな痛手を負うということを認識しておくべきです。逆に言えば、疑いや批判を持たないので賛同する相手が優れていれば効果絶大ではあるのですが。とにかく、何に同行するかが運の分かれ目です。そのためには自分自身の実力を確かなものにしていかなければなりません。本物を見極める目を養えば、入れ込む対象の選択に失敗しにくくなるでしょう。
◇九二
陰位陽爻の不正位。剛毅に過ぎて中庸(周囲とのバランス)を図ることが難しく、個人主義的な行動も目立つのですが、六五と応じているので遠く離れた所に住む人と久々に会ったり、身分の違いを超えようとしたり、逆に今の私的関係に終止符を打って疎遠になりやすい時期です。現れ方は人それぞれで、自ら身内から離れて独りになったり、一時的に日常生活のストレスから自分を解放するために温泉旅行に出るという人もいます。周囲の人と一緒にされたくない(居たくない)という意識が働きやすく、それが昂じて独善的な行動を取ることもよくあります。独自性があるぶん理解されにくく、結果的に孤立するケースも少なくありません。ただ、九二は自分から共同歩調を避けている面もあるので孤立しても寂しくはないでしょうし、むしろその方が自分のやりたいことができると割り切れるタイプです。自分の意を通すために独自路線を行く時期とも言えます。でも、ただ我がままを通そうとするのではなく、今の状況から直感(直観)される徴に従って判断し、流れに乗って行動することが大切です。物事には進むにしろ引くにしろ全てタイミングがあります。自分を取り巻く状況や自然に見出される印象に心を開けば、そこに自分の強い意思を感じ取ることができるはずです。
◇九三
正位正応の爻です。しかし乾から兌へと欠けが生じる時期でもあり、油断なりません。九三は、ある種の予告――「余命半年です」的な死期の宣告とか、「もうすぐ地震が来ます」的な予言などを受けて動揺するのに近い内容です。日常的には「早く虫歯を治療しないと大変なことになるぞー」みたいな感じです。生命や生活の土台を揺るがすような問題を突きつけられた時に、騙し騙しで後回しにするのではなく、本気で改めよう・根本的に直(治)そうという心意気が出てきます。いわゆる“運命を変える”という命題に真剣に取り組む姿勢を発揮する時です。ただ、状況的にはネガティブさが先行しやすく、懸命に努力しても相当の苦痛を伴うかもしれません。また気の強さゆえに、宿命観や義務感に縛られて否定的になっている人を見るときつく当たりがちですが、元来の性根なので悪気はありません。むしろ、運命に屈しない強い心が周囲に希望や勇気を与えることもあるでしょう。ともあれ、何かに本気で取り組むには自分が思う以上に生命力を使います。この時期、活動するに当たっては体力や気力の補給方法を考えておいたほうがいいです。回復(治療)しないまま放置しておくと取り返しのつかないことになる恐れがあります。何かしらの充電手段を講じておきましょう。
◆六四
泰はどの爻も陰陽が応じており、天地が本来あるべき場所に帰ろうとしています。九三・六四はその境目です。九三が堀で、六四がその掘り出された土と考えると、六四の意義は内部(乾)に溜め込んでいたものを開放して、それを周囲の人々に役立てるということにある気がします。九三では“運命(根本)を変える”ための強い意志とガッツがあり、そのために痛い思いも承知で取り組みました。ただ、三爻変にありがちな行き過ぎもあって、ここ六四ではトーンダウンします。九三のように人為的に改善しようとするのではなく、自然の流れの中で時が解決していくのを日々感じている状態です。九三で手術をして六四で静養するイメージ。または悪い部分を根本的に直(治)したことで憂いが消えて気持ちがスッキリした状態かもしれません。ただし、乾(積極)と坤(消極)でギャップが最大ですので、かつてのように自分の意志とか我がままを通すようなことはできなくなっているでしょう。おそらく、自分を取り巻く人々の意向や指示を優先するか、今がどういう時なのかを自覚して自発的に流れに乗ろうとするかだと思います。「時間がない」と気が焦っても、事情や時の流れが急進を許さないことがあるでしょう。心身の調子と活動のペースを取り戻すことが先決です。
◆六五
泰の中で最も男女関係に縁のある爻です。九二の男と六五の女が急接近する形。一目惚れとか駆け落ちも多いかもしれません。ただこの場合、陰陽が逆位置にあるので象徴的に女性の方が位が高く、どこかの良家の令嬢っぽい感じです(必ずしもそうだとは限りませんが)。九二の男性は一途で情熱的ですが、身分の違いから思うように一線を越えることができない雰囲気があります。色々と試行錯誤や葛藤を経験しますが、好きな人や趣味などに打ち込むことで望む未来を手繰り寄せたいと思うでしょう。もっとも、泰における恋愛とか結婚は卦義の象徴として顕著なだけで、事が異性関係に限定されるわけではありません。縁のある対象(人・分野など)が何であれ、それに全身全霊で取り組むという姿勢が問われている時期です。誰かの入れ知恵とか親の薦めなんかではなく、自分自身の想いがどこにあるのかを明確にすることが大切です。そして、自分の心が一番求めているトコロへと飛び込む。周囲の反発や誤解もあるかもしれませんが、中途半端な状態が最も自分を苦しめることになるので勇気を出して本心に従うべきです。「見る前に飛べ」ではないですが、自分の気持ちに正直になって思い切り飛び込んでみるのも、人生というドラマの醍醐味の一つだと思います。
◆上六
陰位陰爻の正位で九三とも正応。坤の最上部で変爻すると艮となり、自分の砦を守ろうという気持ちになりやすい時期です。というのも、今はもう泰の流れが終わりに近づき、次の否の影響が流れ込んでいるからです。否はネガティブさとか閉塞感を表していますから、その兆候を感じる今は、とにかく自分の生活に必要なものを確保しておきたいのです。自分だけ、もしくは特定の重要人物(アーキタイプ)だけを救おうとするかもしれません。そこまでいかなくても、状況的にあまり他人を気遣うことができなくなっているでしょう。でも、これは迫り来る暗雲への対策なので仕方がない処置とも言えます。自然災害の際に貴重品だけを持って逃げるのに似ています。または命だけでも繋ごう(コアを保存しておこう)という意志の顕れ。何らかの事情で多くを失っても、生きてさえいれば頭の中にある知識や体で覚えている技術が救いとなってくれます。この時期、今までしてきたことへの同調性が薄れ、失望したり虚無感を覚えるかもしれません。何か新しい素材を求める思いが高まりますが、それは多分に抽象的なので他人に話しても理解や共感は得られにくいでしょう。それに泰の中で学んだことを放り出す必要はありません。人生のパーツの一つとして今後に生かす方法を探りましょう。
小畜・履と「乾の道」の土台作りをしてきましたが、この泰と次の否で、それが人々に受け入れられるかどうかが問われます。単純に言えば、泰では理解と賛同が得られやすいが、否では軽視され反発に遭いやすい。地(陰)は下り、天(陽)は上り、それらが互いに調和融合するのが良い、というのが地天泰の意義なので、それに逆行する天地否は必然的に人々の共感を得ることは難しくなるわけです。ただ、各爻によって状況は異なるので、対処次第によっては泰も否も良くも悪くもなることは気をつけておく必要があります。天地陰陽の合成は、合金とか合皮のようでもあり、ミックスジュースのようでもあります。一方、否の場合は水と油のように相容れない関係を象徴しています。
泰は裏卦も綜卦も天地否。こういう関係は他に沢雷随と山風蠱、風山漸と雷沢帰妹、水火既済と火水未済があります。これらの上下(内外)の卦はどれも先天八卦図で対面する位置関係になります。完全に真逆。陰陽または視点を反転させただけの関係よりも明確に対概念を読み取ることができるはずです。否の場合は天と地が互いに離反してゆく形。理解し合うどころか、近づきたくないぐらいに思ったり、思われやすい関係。他の3つも考えてみると、餌に釣られて(兌)動く(震)随に対し、止まって(艮)風化(巽)する蠱、正式な手順を踏んでステップアップしていく漸に対し、面倒なプロセスをすっ飛ばして玉の輿を狙う帰妹、終わりを完遂する(決めたことを最後までやり遂げる)既済に対し、竜頭蛇尾になってしまう未済、というように全て逆意味の関係になっています。
一般に、泰は地という器に天というエネルギーが注入される格好なので、内容・内実があって縁起が良いと解釈されることが多いです。一方の否はエネルギーのレセプター(受容体)がない、つまり上卦乾に示される人や物事・考え方・政策などの受け入れ先(坤という下地:人々の賛同)がないということで、縁起が悪いと言われています。まあ、確かにその時々の状況を見ればその通りかもしれませんが、そこでの経験を将来どういう形で生かせるかによって長期における吉凶判断は異なってくるだろうと思います。要するに、微視的に見て吉でも巨視的に見て凶だったらそれはいかがなものかと思うし、故事成語の「人生万事塞翁が馬」的な視点に立てば何が吉で何が凶かなんて判断は真に要領を得ないものになってしまいます。「吉凶は糾える縄の如し」とも言いますしね。難しいです。
続いて、泰と否の関係をストーリーで考えてみます。泰で、気に入ったものと一体化していくと自分の主張とか個性が曖昧になっていきます。そして完全に同調してしまうと一般の人からは「アッチの世界に飛んじゃった人」的に思われる傾向が生じます。その結果として否では、その「アッチの世界」からリアル世界を見るので、どうしても自分と相手、善悪、正否というような対立性を強く意識せざるを得なくなります。自分の世界をガッチリ持っている反面、それに相反する価値観の人達を認められない、いきおい排斥したり強引に捻じ伏せようとするという性質が色濃くなるのです。そしてこれが行き詰ると、次には「どうせ受け容れられないのなら、自分と同じような考え方をする人(目的が似ている人)同士で集まるしかないだろう」と考えるようになり、否の後に同人(天火同人)の卦が来るわけです。
最後に、泰とシンメトリー関係に当たる夬(沢天夬)について考察を入れておきます。一見、共通項を思い浮かべにくいかもしれませんが、これらの卦には対象に対する鋭い集中力や同調性があります。泰の場合、男女に象徴される陰陽が融和することに焦点化が図られ、夬の場合は陰を決し去って、陽のみに一本化しようと神経が研ぎ澄まされていく。卦義としては安泰と決壊という風に反りが合わないように思えますが、その本質面では全体を特定の状態に極めようとする作用が働いています。そしてやがて極点を超えると立場が逆転します。安泰が崩れて閉塞感が立ち込め(泰→否)、陽が寝返り陰となって潜みます(夬→[女后])。
泰は毛色の違う者同士、理解し合えるはずもないように思えますが、自分で作っていた先入観とか壁(限界性)を突き抜けてしまうと、そうした相違点では物事を推し量れなくなります。自分とは遠い存在と思い込んでいても、実はどこかで似ていたり、同じ匂いを持っていることがあります。時には、相手に嫉妬していたことに気がついて意識が変わるかもしれません。大切なことを思い出させてくれた相手に感謝の気持ちが沸いてくることもあるでしょう。こうなると、当初は絶対に認めないとさえ思っていた相手を尊重できるまでになります。誰かを理解したり共感できるのは、少なからず自分にもその要素があるという証拠なのです。
そして、これと反対のことも言えます。誰かを否定したり批判するのは、自分の中にも同じような欠点があり、それに反応しているケースが多いのです。これらが泰と否の本質的な性質として作用しているのではないか、と思っています。
◇初九
泰の初めで正位、六四とも応じています。需や小畜でもそうだったように、下卦乾の三陽は応じる六四に反応する形で協同で進んでいきます。しかし泰の場合、陰陽和合の先駆けで共感力が強いぶん脆さもあります。初爻変はその卦義を無意識的に打ち出してしまうので、自分の意思があやふやになりやすく、特に泰は相手に同化しようとする性質から他者の判断に呑み込まれてしまうおそれがあります。それは大概、自分自身の知識と経験の不足、真偽を見抜けない未熟さが原因になっています。自分なりの方法論を確立できていない間は誰かの無責任な考えにさえ同意してしまいがちです。下手をすると、それが元で自分や周囲の人間を誤った方向に導いてしまうことにもなりかねません。今は感化力とか理解力を発揮する際に、その対象に対して無条件に入れ込んでしまう傾向があるため、もし的外れなものに手を伸ばしてしまうと大きな痛手を負うということを認識しておくべきです。逆に言えば、疑いや批判を持たないので賛同する相手が優れていれば効果絶大ではあるのですが。とにかく、何に同行するかが運の分かれ目です。そのためには自分自身の実力を確かなものにしていかなければなりません。本物を見極める目を養えば、入れ込む対象の選択に失敗しにくくなるでしょう。
◇九二
陰位陽爻の不正位。剛毅に過ぎて中庸(周囲とのバランス)を図ることが難しく、個人主義的な行動も目立つのですが、六五と応じているので遠く離れた所に住む人と久々に会ったり、身分の違いを超えようとしたり、逆に今の私的関係に終止符を打って疎遠になりやすい時期です。現れ方は人それぞれで、自ら身内から離れて独りになったり、一時的に日常生活のストレスから自分を解放するために温泉旅行に出るという人もいます。周囲の人と一緒にされたくない(居たくない)という意識が働きやすく、それが昂じて独善的な行動を取ることもよくあります。独自性があるぶん理解されにくく、結果的に孤立するケースも少なくありません。ただ、九二は自分から共同歩調を避けている面もあるので孤立しても寂しくはないでしょうし、むしろその方が自分のやりたいことができると割り切れるタイプです。自分の意を通すために独自路線を行く時期とも言えます。でも、ただ我がままを通そうとするのではなく、今の状況から直感(直観)される徴に従って判断し、流れに乗って行動することが大切です。物事には進むにしろ引くにしろ全てタイミングがあります。自分を取り巻く状況や自然に見出される印象に心を開けば、そこに自分の強い意思を感じ取ることができるはずです。
◇九三
正位正応の爻です。しかし乾から兌へと欠けが生じる時期でもあり、油断なりません。九三は、ある種の予告――「余命半年です」的な死期の宣告とか、「もうすぐ地震が来ます」的な予言などを受けて動揺するのに近い内容です。日常的には「早く虫歯を治療しないと大変なことになるぞー」みたいな感じです。生命や生活の土台を揺るがすような問題を突きつけられた時に、騙し騙しで後回しにするのではなく、本気で改めよう・根本的に直(治)そうという心意気が出てきます。いわゆる“運命を変える”という命題に真剣に取り組む姿勢を発揮する時です。ただ、状況的にはネガティブさが先行しやすく、懸命に努力しても相当の苦痛を伴うかもしれません。また気の強さゆえに、宿命観や義務感に縛られて否定的になっている人を見るときつく当たりがちですが、元来の性根なので悪気はありません。むしろ、運命に屈しない強い心が周囲に希望や勇気を与えることもあるでしょう。ともあれ、何かに本気で取り組むには自分が思う以上に生命力を使います。この時期、活動するに当たっては体力や気力の補給方法を考えておいたほうがいいです。回復(治療)しないまま放置しておくと取り返しのつかないことになる恐れがあります。何かしらの充電手段を講じておきましょう。
◆六四
泰はどの爻も陰陽が応じており、天地が本来あるべき場所に帰ろうとしています。九三・六四はその境目です。九三が堀で、六四がその掘り出された土と考えると、六四の意義は内部(乾)に溜め込んでいたものを開放して、それを周囲の人々に役立てるということにある気がします。九三では“運命(根本)を変える”ための強い意志とガッツがあり、そのために痛い思いも承知で取り組みました。ただ、三爻変にありがちな行き過ぎもあって、ここ六四ではトーンダウンします。九三のように人為的に改善しようとするのではなく、自然の流れの中で時が解決していくのを日々感じている状態です。九三で手術をして六四で静養するイメージ。または悪い部分を根本的に直(治)したことで憂いが消えて気持ちがスッキリした状態かもしれません。ただし、乾(積極)と坤(消極)でギャップが最大ですので、かつてのように自分の意志とか我がままを通すようなことはできなくなっているでしょう。おそらく、自分を取り巻く人々の意向や指示を優先するか、今がどういう時なのかを自覚して自発的に流れに乗ろうとするかだと思います。「時間がない」と気が焦っても、事情や時の流れが急進を許さないことがあるでしょう。心身の調子と活動のペースを取り戻すことが先決です。
◆六五
泰の中で最も男女関係に縁のある爻です。九二の男と六五の女が急接近する形。一目惚れとか駆け落ちも多いかもしれません。ただこの場合、陰陽が逆位置にあるので象徴的に女性の方が位が高く、どこかの良家の令嬢っぽい感じです(必ずしもそうだとは限りませんが)。九二の男性は一途で情熱的ですが、身分の違いから思うように一線を越えることができない雰囲気があります。色々と試行錯誤や葛藤を経験しますが、好きな人や趣味などに打ち込むことで望む未来を手繰り寄せたいと思うでしょう。もっとも、泰における恋愛とか結婚は卦義の象徴として顕著なだけで、事が異性関係に限定されるわけではありません。縁のある対象(人・分野など)が何であれ、それに全身全霊で取り組むという姿勢が問われている時期です。誰かの入れ知恵とか親の薦めなんかではなく、自分自身の想いがどこにあるのかを明確にすることが大切です。そして、自分の心が一番求めているトコロへと飛び込む。周囲の反発や誤解もあるかもしれませんが、中途半端な状態が最も自分を苦しめることになるので勇気を出して本心に従うべきです。「見る前に飛べ」ではないですが、自分の気持ちに正直になって思い切り飛び込んでみるのも、人生というドラマの醍醐味の一つだと思います。
◆上六
陰位陰爻の正位で九三とも正応。坤の最上部で変爻すると艮となり、自分の砦を守ろうという気持ちになりやすい時期です。というのも、今はもう泰の流れが終わりに近づき、次の否の影響が流れ込んでいるからです。否はネガティブさとか閉塞感を表していますから、その兆候を感じる今は、とにかく自分の生活に必要なものを確保しておきたいのです。自分だけ、もしくは特定の重要人物(アーキタイプ)だけを救おうとするかもしれません。そこまでいかなくても、状況的にあまり他人を気遣うことができなくなっているでしょう。でも、これは迫り来る暗雲への対策なので仕方がない処置とも言えます。自然災害の際に貴重品だけを持って逃げるのに似ています。または命だけでも繋ごう(コアを保存しておこう)という意志の顕れ。何らかの事情で多くを失っても、生きてさえいれば頭の中にある知識や体で覚えている技術が救いとなってくれます。この時期、今までしてきたことへの同調性が薄れ、失望したり虚無感を覚えるかもしれません。何か新しい素材を求める思いが高まりますが、それは多分に抽象的なので他人に話しても理解や共感は得られにくいでしょう。それに泰の中で学んだことを放り出す必要はありません。人生のパーツの一つとして今後に生かす方法を探りましょう。
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