With the I Ching

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僕はなぜ占いに出会ったのか

2008-11-29 23:14:11 | 易 de コラム
今日は少し回想・・・というのか、占いに関してよく考えることを書いてみたいと思います。まだ自分の中でも整理が付いてないので、あわよくば書きながら自己分析するような形になればいいなと期待しています。

タイトルは「なぜ占いに出会ったのか?」――思えば、占いそのものに出会ったのは10代も終わりの頃。今の自分がそうしているように、当時、占星術と易とは時を同じくして学び始めました。そのため、僕個人にとって両者は不可分なもので、まさにコインの表裏のような感じです。

これは、占星術とタロットを平行して用いている人と似ています。ただ、それが僕には西洋と東洋の両極性を合わせたものだったというだけのことだと思っています。

しかしそのために、それぞれの占術での視点の違いというのを常に感じ、何度も戸惑ってきました。同じ問題に対して、易と占星術で得られる答えは必ずしも同じではないからです。・・・いえ、たぶん正確に言えば、本当の正解など元々ないんだと、今は経験的に考えています。

というのも、易は易の、占星術は占星術の世界観で構成されていて、それぞれに判断における価値観とか基盤が異なっているからです。占いといえども双方に一種の文化的・思想的ベースがあるので、その観念の中で生きている限り、現象の本質は同じでも判断(主観)は変わってきてしまいます。易でも占星術(例えばホラリーが顕著ですが)でも吉(成功)や凶(失敗)とか、Yes/Noの回答が出てきますが、多くの場合、易で凶や咎などが出ていても、占星術や現代的価値観による常識的判断ではGoサインが出てくるんです。

でも、だからといって易が間違っているというわけではありません。易も正解だし、占星術も正解。ただ、その判断に至る個人的または文化的な価値観に差異があるだけ。易は東洋の伝統的観念を強く受け継いでいるので、爻辞(判断文)も比較的締め付けた感じの厳格な表現が多い。人としての分別とか良識(モラル)が見事に反映されていて、人格者を目指すのならば易の判断に従っていれば間違いはないのかもしれません。

けれども、この多様性に満ちた複雑な現代社会では、そうしたどこか画一的な趣のある考え方は通じにくい。簡単に言えば、「こうしなければいけない」という行動“指針”よりも、「結局のところ、自分はどうしたいのか」という行動“選択”のほうに重点が置かれているわけです。これには、個人主義の台頭という時代背景が多分に影響を与えていると思われます。

そして、判断の主眼となるものが異なるために、選び取る行動も、それから現われた結果に対する“ものの見方”自体も異なります。もし、ある人が物事は吉か凶(白と黒、成功と失敗など言い方は色々あるでしょうけど)かのどちらかしかない、という価値観を持っていたとしたら、それがその人の人生のすべてを決定していきます。良い時は良いが悪い時は悪い、という四角四面の考え方です。

また、もう少し柔軟な人の場合で、人生は吉と凶ではあるが、それは波のように交互に入れ替わる、と考えていれば、必然的にそのような人生経験を積んでいくことになるでしょう。さらに言えば、吉も凶も自分の主観次第と考える人ならば(もしその人が、属する社会的・文化的価値観に流されないとして)、他の人には格別の吉だとか凶と思える経験さえ、ただの一時的な境遇もしくは通過点としか映らないだろうと思います。


あれこれ書きましたが、要するに、易は道徳的だが少し行動や心理面において融通が利かないトコロがあり、対する占星術やサビアンなどは多様性に対応できる柔軟さがあるが放任気味なのが玉に瑕、ということです。

結局のところ用いる人の好みも関係してくるのですが、ただ、確実に言えることは「どの道を進んでも良い」ってこと。
You're kidding me!(冗談だろ!)とかCome on!(おいおい!)とかNo way!(そんなわけないだろ!)と思われそうですけど、僕は実際にそう考えていますし、どこかでそう考えるしかないとも思っています。

そりゃあ、人生には凸凹だったり刺々しい道もあれば、一方で平坦な道やなだらかなスロープのような道もある。時には、その先は行き止まりや崖・・・という絶望以外の何物でもないと結論付けられそうな道もあります。でも、より大きな視点から見れば、本当にどの道を選んでもOKだし、その人が自発的にそうしたいのであれば常にGOサインが出されているという、驚愕の事実があるような気がしているのです。

でも、勘違いして欲しくないのは、殺人とかレイプとか自殺とかの犯罪もOKだ、みたいなことではありません。どの人も個人としての人生と等しいレベルで他者および社会と共に生きているので、誰かや社会を傷つけることは、――さらには生きている地盤である地球を傷つけることは、そのまま自傷行為として転化されるからです。だから、それは選択や判断の正誤を問う以前の問題です。もっとも、これは単純に良識の範囲の話として受け止めていただけますよね。

しかし、僕も含めて多くの人が、“自傷行為”を何かにつけてしてしまっているので、未だに社会は混濁してしまっているんだろうと思います。このことに気がつくかどうかは、これからの世界の未来を決定付ける大きな一因だと、僕は確信を持って言えます。


さて、話を戻しますね。

易と占星術(サビアン・タロット)は洋の東西における思想の違いや時代背景の違いによって、そこに肉付けされている解釈は違っていますが、それを用いる人の意識に働きかける本質的要素は同じはずです。だから、プロセスとして経過する手段や道筋にズレがあっても、そこに内在しているエッセンスを見抜くことができれば、凸凹道だろうが安穏とした道だろうが、それが“その人にとって”必要なものに映ることになります。

人は、他人の境遇を見て「可哀想だね」とか「ラッキーだね」などと言いますが、それはその人の経験的判断あるいは社会的常識から出た言葉でしかありません。実際のところは、そうした状況を経験している本人にしか理解できないことが沢山あるし、一定の期間を経過した後に初めてその境遇を経験しなければならなかった必要性に気がつくことも多いですよね。そして、「あの時は辛いとしか思えなかったけど、今振り返ってみると、あの経験があったから今を生きていける」というようなことを考えたりする。

もしかしたら、こう言ってしまってもいいのかも知れません。「僕らは、選択肢を間違えるということはありえない」と。
誤解を恐れずに書けば、次のようにも言い換えられます。「実際のところ、本質的な意味では良いも悪いもなく、単に当人が“何をするのか/何をしたいのか”に集約される。」

・・・で、そんなことを実感したり考え耽る内に、今日のタイトルの件について、すなわち「なぜ僕は占いに出会ったのか?」ということに思い至ったわけです。冒頭に、今日の記事を書きながら考えが整理されればいいな、と書きましたが、うーん、どうなんだろう?(笑) まとまってきたのかきてないのかイマイチ認識できてませんが、たぶん「人生を大小・主客・様々な角度で見られるようになりなさいよ。」ってことなのかもなぁ…と、今おぼろげに感じています。

英語で言うと、perspective(パースペクティブ:ものの見方、視野、展望、大局観、遠近などの意味がある)についての理解を深めよ、ということなのかも。

気づきや反省、失敗からの学びの日々が続く反面、心の奥底では、実はもう既に知っているし、たぶん分かっているという状態もあるような気がしています。おそらくこれを読んでいる皆さんにも同じような想いを抱いている人がいるんじゃないかと思います。

ただ、僕らは知っているだけではどうしようもないから、それを現実のアクションとして結果を確認したり、ある状況を意図的に作り出したりしてみたいのかもしれない。なんだかそんな風に思えます。そして、その過程を経ていくことで、自分と世界とのつながり、個人と個人のつながり、そして全体性(oneness:ワンネス)に対する洞察と実感といったものを再認識(復活)させたいのかも。

吉とか凶とか、凸凹道とか平坦な道とか、そういった二元性(相対性)の考え方と、ホーリズム的な一元性(全体性・絶対性・単一性)には優劣はないと思う。易の用語で言い換えると太極と陰陽ということだけど、そのどちらも互いが存在するために必要だろうから。

つまり、全てが包括された唯一の存在としての経験は、その経験それ以上のものではないので、どうあがいても個に対する認識が得られない。だから必然的に相対性が求められ、そしてその中に生きることでしか得られない体験をすることで、全体を形成する一つ一つの個性が更にしっかりしていくんじゃないか、って思うのです。おそらく、演繹と帰納が上手い具合に融合している…。


占いの本質が何か、なんてことを偉そうに言えるほど僕はできた人間ではありませんが、でも一つ思うのは、占いは過去・現在・未来という時間軸と、前後・左右・上下・斜め・回転といった空間軸を同時に扱う部類のものなので、こうした時空の概念そのものが詰まるところ占いの本質的な要素ではあろうかと思います。

しかし、それよりも重要なことは、そうした時空を認識したり、意識的に活用する僕たちの意思(意志)にこそあると思います。

占いを用いる人は因果律に直結する時間の概念について一般の人以上に拘るし、方位学をしている人などは特に空間の影響にも拘ります。でも、こうした時空の枠内にある考え方にとらわれている限りは、その見方でしか物事を判断できない、という厳然たる事実もあるわけで、僕は当初からそれを実に煩わしく思ってきたし、今も同様に感じています。

・・・いえ、正確に言うと真意は少し違うかな。2004年だか2005年くらいにそうした傾向が自分に現われ始めた時と、これを書いている今現在とでは認識が違っているからです。

今は、時間や空間の性質を看破し体系付け、そこに自然界の事象を織り成して高度な占術を構成された先賢に対して、学び始めた時以上に尊敬の念を抱いています。

またそれだけでなく、今の僕自身の認識として、時間や空間の概念を包括的に眺めたり意識できるようなことが多くなってきたこともあります。実際的な意味では、この影響が大きいです。過去・現在・未来を一括りにするようなシンクロニシティ(共時性)やパラレル(平行)世界的な気づきとか面白い経験を何度もする内に、自分の中の価値体系というか判断基準が組み替えられているような状態に今まさにあります。


時空の概念は、絶対性という意味では同時発生的だし、相対性という意味では因果的です。これらは哲学的には矛盾するように思えますが、でもそうはなっていない・・・不思議なものです。

そういった内容から、占術の存在意義とか失われた価値について以前よりも分かるようになったし、その一方で占術そのものの限界性や不必要な状況に対する理解も進んできています。

で、思うに、こういうのは一個人に限定的に起こることではなくて、たいてい集団的な意識体系の中から派生してくるものなので、おそらく、同じような感覚を日々味わっている人がいるはずです。それこそ、そこら中に。

だから僕の深層心理では、今この文章を書くことで、そうした人たちに「俺/私と同じようなことを感じている人がいる」ということを伝えたい(知ってもらいたい)のかも知れません(笑)

とはいえ、あからさまな共鳴願望とか、コネクションを持ちたいとかいうことじゃなくて、そうした意識の連合体の一人として自分が生きている――言い換えれば、自分も全体性を構成する“欠かすことのできない”一人なんだ、ということを確認したいだけなんじゃないかと、個人的には思ってはいるのですけど。


えっと、こんなに長々と書くことになろうとは思ってませんでしたが、結果的に良かったのか悪かったのか。・・・おっと、「良し悪し」は本質的にないって、さっき自分で書いたばかりじゃん


それじゃ、今日はこの辺で。Good night!


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