今日はちょっと最近深く考える事を書きます。
人それぞれの考え方なので、スルー推奨します。
内容は、
自己肯定感
自己否定感
について、ってところでしょうか。
では追記から…
会社の窓から、ぼーっと雲を見ていたんです。
形を変えて存在する雲。
今はこんな風に見えるけれども、雨に形を変えたり、霧として高地の植物を濡らしたりしてる。
そして刻々と姿を変えて下界にいる私たちの眼を楽しませてくれている。
雲は雲として存在し、地球の水の循環としてただ、そこに存在していて、
それ以上でもそれ以下でもない。
地球上の本当にちっちゃい細胞でさえそれ以上でもなくそれ以下でもないのに、
なんで人間って制限つけるの好きなんだろうって思います。
最近の自分のミッションが、「受け入れる」だったり「手放す」だったりしたのですが、
ありのままを受け入れるってことが難しくて、そういうことが難しい社会構造でもあるんだなあと感じています。
手放すことは、時期が来た時にさらっとリリースできる人でいたいなあと思い、エゴが引き止める醜さ、変化する恐怖心、そしてそれだけの思い入れができていた自分の情熱についてがっつり考えてみたりしていました。
生きてるだけでいいんだよって言われる世の中になんないかなあ。
誰かのために役に立たないものは切り捨てるっていうんじゃなくて。
役に立たないっていう役割もたぶんあるんだよね。
なんというか難しいんですけど。
レオ・レオニーさんの「フレデリック」って絵本が大好きなんです。
フレデリックは、みんなが冬に備えてせっせと働いているのに、
一人だけぼーっとしているのです。
秋が来て、たくさんの食べ物をため込んで、
少しずつ食べて…だんだん減っていき、することもなくなる。灰色の壁を見つめるだけになる。
そんな時、何もしていなかったフレデリックは、春の色、夏の色、いろんな景色、におい、感触をみんなにおすそ分けする。そしてみんなはフレデリックの話に聞き入る。
ぼーっとしていたのではなくて、そういったものをみんなが食べ物をため込んでいるように自分の中に溜めていたんだよって話。
一般常識からして、「役に立つ」「役にたたない」とか「勝ち組」「負け組」とか
そんなことは自分がこの世に生を受けて死ぬ時の、または生きている時の他人のジャッジの基準にはならない。
どれだけ心を磨けたか、
どれだけ自分を大切にできたか。
自分を大切にするってことは、すべてのものを大切にすることに繋がるから。
どれだけ自分を愛せたか、誰の基準でもなくただ自分が生まれてきたことに感謝できるか。
自己肯定感の薄い私だからこそ、そう思うのかもしれないですね。