cry&smile

海外ドラマの感想、子育て、結婚時代のいろいろなど、ありふれていると思ってるのは自分だけらしく、怒涛の日常を綴っています。

自己否定・肯定感

2013-09-25 17:30:23 | ひとりごと・詩


今日はちょっと最近深く考える事を書きます。
人それぞれの考え方なので、スルー推奨します。

内容は、
自己肯定感
自己否定感
について、ってところでしょうか。


では追記から…






会社の窓から、ぼーっと雲を見ていたんです。
形を変えて存在する雲。
今はこんな風に見えるけれども、雨に形を変えたり、霧として高地の植物を濡らしたりしてる。
そして刻々と姿を変えて下界にいる私たちの眼を楽しませてくれている。

雲は雲として存在し、地球の水の循環としてただ、そこに存在していて、
それ以上でもそれ以下でもない。

地球上の本当にちっちゃい細胞でさえそれ以上でもなくそれ以下でもないのに、
なんで人間って制限つけるの好きなんだろうって思います。

最近の自分のミッションが、「受け入れる」だったり「手放す」だったりしたのですが、
ありのままを受け入れるってことが難しくて、そういうことが難しい社会構造でもあるんだなあと感じています。
手放すことは、時期が来た時にさらっとリリースできる人でいたいなあと思い、エゴが引き止める醜さ、変化する恐怖心、そしてそれだけの思い入れができていた自分の情熱についてがっつり考えてみたりしていました。

生きてるだけでいいんだよって言われる世の中になんないかなあ。
誰かのために役に立たないものは切り捨てるっていうんじゃなくて。
役に立たないっていう役割もたぶんあるんだよね。

なんというか難しいんですけど。

レオ・レオニーさんの「フレデリック」って絵本が大好きなんです。
フレデリックは、みんなが冬に備えてせっせと働いているのに、
一人だけぼーっとしているのです。
秋が来て、たくさんの食べ物をため込んで、
少しずつ食べて…だんだん減っていき、することもなくなる。灰色の壁を見つめるだけになる。
そんな時、何もしていなかったフレデリックは、春の色、夏の色、いろんな景色、におい、感触をみんなにおすそ分けする。そしてみんなはフレデリックの話に聞き入る。
ぼーっとしていたのではなくて、そういったものをみんなが食べ物をため込んでいるように自分の中に溜めていたんだよって話。

一般常識からして、「役に立つ」「役にたたない」とか「勝ち組」「負け組」とか
そんなことは自分がこの世に生を受けて死ぬ時の、または生きている時の他人のジャッジの基準にはならない。

どれだけ心を磨けたか、
どれだけ自分を大切にできたか。
自分を大切にするってことは、すべてのものを大切にすることに繋がるから。
どれだけ自分を愛せたか、誰の基準でもなくただ自分が生まれてきたことに感謝できるか。

自己肯定感の薄い私だからこそ、そう思うのかもしれないですね。



hitorigoto

2013-09-25 17:03:41 | ひとりごと・詩
かなり、negativeな記事です。スルーしてね。
ちょっと書いて整理したいだけ。
離婚・不登校関係の記事なので、その方面の人に意見をお聞きしたいなあと思いますが…












以下、9月10日に書いたものです。
それから半月経ちますが、やはりずっとこんな気持ちのままなので、一度ブログに投下して手放してみようと思います。読んでいて気分が悪くなったらすぐに画面を替えてくださいね。
本当に愚痴しか言ってないので。





最近、復縁オーラをすごく感じてうんざりしている。
この間の日曜は子どもとの面会だったのですが、
その2週間前から、生霊が飛んできてるのが分かって、
私の過去のこだわっている部分に反応して、首と肩、背中がものすごい痛んでいる。
想念の強い人なので、なんかたくらんでるとすぐにくる。
うあーーーどーにかならんかな。

このタイミングで、娘だけじゃなく息子も不登校に突入したことが知れてしまい、
今回は穏便にすんだものの、
次回はどんな手に打って出るか分からないと思い、
ものすごい不安感と焦燥と嫌悪感でいっぱいになってる。
親権は私が持っているものの、
今回、子どもに「結婚時の姓」に戻る気はないか、と尋ねたらしい。
この不登校になってることが、親権を持つ親として親の役目を果たしていないって言われちゃったら、もう、どうもならない。腕のいい弁護士の手にかかったら、私はバンザイするしかない。

これまでの私の頑張りや、私がしてきたことをいいところだけさらっととっていっちゃうのは結婚時からそうだったので、今回もそんな悪夢がよみがえる。
杞憂で終わることを望むが、これで娘が受験できなかったりしたら、もう、覚悟決めないといけないなって思う。
なんでも自分の都合悪いこと、うまくいかないことは私のせいにしてきた人なので、
今も私のせいだって思っていることだろう。

私の実家、実の母でさえ、もう子供は手放せ、というのだ。あなたの手には負えないと。
身近な家族でさえ私の味方はいない。どういうことだ。

私に母としての技量のないことはその周りからの対応でそうなんだろうなあと思うしかない。
でも、少なくとも子どもたちは私を母だと慕ってくれ、
私は子どもたちの型破りの才能を感じている。
型にはまれない子どもたちだってことを私のほかに誰が認めてあげるというのか。
繊細で、いろんなことに気が付いて、間違ってるよって思うからこそ、学校の枠に戻れない、
知らない顔をするのが苦痛だってことを誰も知ろうとはしない。

学校の型にはまればそれで安心か?
確かに勉強することは大事だと思う。
知ることが楽しいって思える子どもたちなので、学ぶことはしている。
違った生き方をしていると叩かれる世の中なんだよな。

でも私がすべてを教えられるとは思っていないので、学校に戻った方がいいと思う。
ただ、無理をして型にはまる必要はないと思う。
高校に行けば、多少そういうスキルも使えるかと思うが、中学は一番きついなあ。

そんな中で、親権を取り上げられる事態になったら、と思うと…ぞっとする。
でもそれをやりかねないのが奴なんだよなあ。

昨日は不安でぼろぼろ泣いた。
子どもたちにもこれから想定されることを話した。
少し、これじゃいかんかも、って思ったようだが、行動が伴うのはたぶんまだ先。
子どもたちが幸せでいられるなら、親権を父方に譲ることも考える。お金もしっかり持って行ってるし。
しかし、あまりに理不尽だ。
神仏はまだどんな試練を用意しているんだ?
私が存在する意味はあるのか?
むしろ、そこに関する試練なのか?

私の悪い癖で考えすぎなのですが、
今日はちょっと吐き出しとかないと、死ぬな、って思ったので。

ひとりごと、おわり。