カゲロウというあるひとつの生物を巡って連想ゲームのように記事を作ってみた。最初に「 I was born 」と題する吉野弘の詩。次に今西錦司の講演の一節。最後にカゲロウの羽化の一瞬を捉えた動画。この二つの文章と一つの動画の引用でもって私のカゲロウを巡る旅の日記とする。
カゲロウは命の儚さ切なさを想起させる絶好のメタファーであり、そのことは日本人の集合的無意識に確固として書き込まれている。吉野弘の「I was born」は生れて死にいく生物の定めを美しい日本語で捕えた傑作である。おそらく今西錦司が生物学のフィールドワークの対象としてカゲロウを選んだ動機にもこのような日本人の無意識の根源に降り立って行こうとする決意があったのではないかと想像される。しかし逆にカゲロウを通して今西が発見したものは生命の永遠性無限性雄大性そのものであった。35億年の生物進化のヴィジョンを今西はカゲロウの棲み分けという事実の発見によって基礎付けたのである。カゲロウが教えてくれたのだ、地球に住まう生物が棲み分けという事実を通して生命と環境を調和させているという根源的なその真理を。水生昆虫であるカゲロウは羽化し空を飛び回って充実した生を楽しみやがて多くの子孫を生んで速やかに退場する。カゲロウは35億年そのような生と死を繰り返してきたのだ。カゲロウがどうして儚い命を象徴するだけの存在でありえようか。事実はその反対である。人間もまた生物35億年の進化の歴史を背負ってこの世に存在する。35億年+100年が人に与えられた時間、35憶年+数日がカゲロウの生きる時間。35億年から勘定すれば100年と数日は加えられた微細な誤差に過ぎない。カゲロウよ、美しいその生を永遠に生きよ。
少年の思いは飛躍しやすい。 その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。 ----やっぱり I was born なんだね---- 父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。 ---- I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は 生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね---- その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。 僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。そ れを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。